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2012年

●東京都還暦軟式野球大会に中村真一さん出場
(2012年10月3日掲載)

多彩なアウトドア趣味で知られる中村真一さん(ベース)は10月3日府中市内の球場で開催された「東京都還暦軟式野球大会」に出場した。若いころから草野球に親しみ、企業を定年退職してからは地元府中市の軟式野球チーム、Elms(エルムス)に入団、強肩の捕手としてチームの要で活躍している。

この大会でも5番、捕手として先発出場した。公休日で自宅で暇を持て余していた管理人は、自宅から会場まではクルマで10分余りの距離のため、応援と取材で駆け付けた。最高気温22度、多摩川を渡る風がこの時期にしては肌寒く感じられる午後だった。

▼試合後の中村さんの談話
 この試合、古希を過ぎたピッチャーに散発5安打で惨敗でした。相手の得点もエラー絡み(還暦野球の宿命です)で防げた得点なので、まだまだ練習が足りません。白門同様にもっと練習が必要です。

 
 12時の試合開始前に防具をつけ終わった中村さん 巧みに投手をリードする女房役
 2塁に走った走者を刺す鋭い送球  第一打席は三振、第二打席は惜しくもセンターライナー


第1回白門杯争奪囲碁大会 (2012年9月30日掲載)

9月5日(水)午後1時、秋晴れの江ノ島に7人の棋士が集まった。高木辰夫、西山和夫、小松秀洋、小川勝久、藤沢賢二、江畑忠夫、海外義次といずれも囲碁暦は長いもののいまだにB級の域を出ない面々ばかりである。会場となった「かながわ女性センター」はこれまでに数回にわたり、演奏会直前の強化合宿の舞台となったところであり、地元の小川勝久、小松秀洋の両氏が幹事を務めてくれた。

早速総当りのハンデ戦が始まった。

「やった!」、「いやあ、まいったな!」の嬌声と怒号が飛び交いながら夕方の6時までに5回戦を終了して、新鮮な刺身と天ぷらの夕食宴会に入る。そこまで負け越したヘボ棋士たちも食卓に宮城県の銘酒「浦霞」を見つけた途端にそれまでの渋面もどこへやら。棋譜を振り返りながら反省やら賞賛やらで歓談した。

だがふと周囲を見回すと、中年以上の女性ばかりが静かに食事をしている。なにやら老棋士たちを不審そうな目で見ているではないか。
「そうか、ここは“かながわ女性センター“だもんな・・・」と改めて納得。やや場違いな存在であることに老棋士たちは今更ながら気が付いたのである。
その後は宿泊室に戻り、お定まりの反省会が夜更けまで延々と続いた。

2日目。久しぶりの二日酔いの頭を気にしながら決勝戦に進む。昨夜までの無駄口と冗談はどこへやら、極めて真面目な対戦が続く。優勝は4勝1敗の3人、西山、小川、江畑に絞られた。長考を含む静かな激戦の結果、西山と江畑がそれぞれ5勝1敗で同点。しかしこれまでの対戦成績から西山和夫が優勝の栄冠に輝き、出所不明の古びた優勝カップと賞金をまんまとせしめた。

優勝した西山和夫氏に聞く。
----最高齢の優勝、おめでとうございました。
 「囲碁ってのは人間性が出るね。対戦相手を尊重しつつもミスを見逃さず、勝負どころでは遠慮仮借なく攻め込むことが必要だよ。それまではじっと我慢することも必要だ。勝負事は素質も大事だが、やはり日頃の努力と切磋琢磨が決め手になったね」
----対戦相手の印象は?
 「みな随分と上手くなったが、2名ほどまだまだ精進の足らない連中がいる。しかし持病の腰の痛みに耐えて勝負に挑んだ小川君は賞賛に値するね。対戦相手ではではやはり江畑クンが抜きん出ていたよ。あの位の年になると、多少は風格と言ったものも感じるようになるなあ」
----次回の抱負は
 「当然連続優勝を狙うよ。全勝でね」

老棋士たちの激戦が始まる(左から藤沢、小川、高木) 優勝候補の西山(左)と対抗馬の小松(右)
激戦は一段落、明日への英気を養う 見事優勝の西山(左)と準優勝の江畑(右)


▼番外編
 参加者7名の星取表。
横一列で見ること。
棋士 高木 西山 小松 小川 藤沢 江畑 海外 総合成績 順位
高木 - 2-4 5位
西山 - 5-1 優勝
小松 - 3-3 4位
小川 - 4-2 3位
藤沢 - 2-4 5位
江畑 - 5-1 準優勝
海外 - 0-6 最下位


●森田敏昭さんを偲ぶ
(2012年8月20日掲載)

 昭和9年、東京都墨田区(当時東京市向島区)請地(うけじ)に生まれる。父は木工職人だったので少年時代から見よう見真似で室内の造作などを巧みにこなすようになる。その後に同区内小梅に転居。太平洋戦争が激化してから茨城、次いで秋田県大館に学童疎開し終戦を迎えた。その後に一家とともに墨田区向島(隅田川と北十間川に挟まれた地域)に5年住み、更に江戸川区平井に移り住む。合唱音楽に目覚めたのは中学時代であり、両国高校に進学して同校で初めての音楽部を創設、指揮をする傍ら作曲の才能も発揮し準校歌として長く愛された曲もあった。中央大学法学部(二部)に進み、昼間は働きながら夜は駿河台校舎で勉強に励んだ。

 卒業後の昭和35年に警視庁に入庁、警邏(ら)課に配属された。当時の上司から「警察職員なら、早く身を固めなさい」とその姪を結婚相手に紹介されるが、それが現在の夫人、志づかさんである。勉強熱心は社会人になっても変わらず、ドイツ学院に通って語学の素養を磨いた。さらに立川警察署に転勤して会計係になった後は青梅市にある簿記学校に夜間通学し、簿記資格も得た。何事も徹底して自分のものにするという性格は若いころからのものだった。夫人の話によると、朝は6時に自宅を出て夜は10時過ぎの帰宅が続いたと言う。

 白門グリークラブ団員には滅多に自らの私生活を語らなかったが、妹の靖子さん(小金井市在住)によれば「10歳も年が離れているので遊んでもらった記憶はなく、私から見ると大人同然の人でしたね」。「体調が悪くて自宅で休んでいると、母から面倒を見るように言われた兄が私のことなど眼中になく、近所の子と一緒にどこから集めたのか名刺の厚紙を切って組合せ、夢中になって乗り物模型を作っていました」と苦笑する。通夜の席でも団員が目にしたであろう鉄道模型とカメラ収集は森田さんの知られざる趣味であった。自宅には100台を超えるクラシックカメラがあった。いずれも名機ばかりである。しかしその一方、洒脱な江戸落語も好きで、志ん生、円生、三木助(三代目)の大ファンでもあった。入院中も持ち込んだCDで落語を楽しんだが、気に入ったオチを同室の患者たちに話しても誰も笑わないので、「ユーモアのセンスのない連中ばかりだ」と家族たちに不満をもらすこともあった。
 
元来がクラシック音楽しか興味のないと思われていた森田さんであったが、遺族によれば実はカラオケも2曲だけ十八番としたものがある。「おゆき」と「青葉城恋歌」である。靖子さんによれば「おゆき」はこれを歌ったプロ棋士の内藤国男と声と風貌が似ているために、特に気に入っていた。新潟演奏旅行の際に訪れた、グリーOBの本間譲二さんが経営するスナック「鹿」で渋々マイクを持たされた森田さんが歌うこの「おゆき」を聴いて、居合わせた団員たちは「あの森田さんが歌謡曲を!」と目を丸くした。一方、「青葉城恋歌」は仙台のご当地ソングであるが、実は志づか夫人の生地が仙台であったため、例外的に好んだようだ。あの無骨なまでに感情を表すのが苦手な森田さんが「・・・恋歌」を歌っていたとは驚きである。

 9年前に難病を発症して白門グリークラブの常任指揮者から退任した後は、夫人や靖子さんら家族と出かける国内外の戦跡訪問が生きがいとなったようだ。病の体を押して太平洋戦争の激戦地グアム、学童疎開先の寺、原爆投下があった広島を訪問したが、最後の願いであった沖縄訪問の願いは叶わなかった。

 8月18日の出棺間際には三木稔作曲の合唱作品「般若心経」(1989年、東京リーダーターフェル初演)のCDが会場に流され、生涯を通じてこよなく合唱音楽を愛した故人を送ることとなった。戒名は「法照敏達信士(ほうしょうびんだつしんじ)」

(上の写真は2001年11月に実施した中国演奏旅行に参加した左から妹の靖子さん、森田敏昭さん、志づか夫人。万里の長城・八達嶺にて)
文・構成:宮本康幸

 森田敏昭さん、数々の功績を残して逝去 (8月19日掲載)

白門グリークラブが創団された1960年から2005年まで当団の常任指揮者を務めた森田敏昭さんが、8月15日早朝に入院先の日出町・大久野病院で逝去されました。享年78。

森田さんは1956年に中央大学法学部を卒業、警視庁に勤務する傍ら、母校の混声合唱団、男声合唱団の指導に当たり、その後に男声合唱団(中央大学グリークラブ)の第3代指揮者、また1960年に当時の白門グリークラブ創団に際しては初代の常任指揮者に就任し、国内、海外の演奏旅行を成功させ、定期演奏会では13回演奏会まで指揮をするなどの活躍をしました。

一方、中央大学設立100周年を記念して大学が派遣した学生のグリークラブ欧州演奏旅行を指揮者として率い、ローマではバチカン法王、ヨハネ=パウロ2世(在位:1978-- 2005年)に団員や菅野浩和氏とともに謁見を賜ったほか、副指揮者として東京リーダータフェルフェラインと共に数回の欧州演奏旅行を大成功に導き、その卓越した指導力は合唱界から高く評価されました。

2004年に難病を発症し、治療のために惜しまれて常任指揮者を退任して名誉指揮者に就任。その後も当団の貴重なアドバイザーとして演奏会の度に下手袖で気を揉む姿がありました。

残念なことに病状が進み、ここ数年は入退院を繰り返していましたが、さる8月15日午前4時過ぎに肺炎で78歳の生涯を閉じました。文字通り白門グリークラブ歴史上では最大の貢献者であり、当団の演奏スタイルは森田さんの残した音楽そのものです。

「僕の夢は、白門グリークラブを『白門ゾリステン』と呼ばれるまでにすることなんだ」とある練習時に言ったことを思い出します。それだけ白門グリークラブにのめり込んでいました。

▼通夜と葬儀、告別式
通夜は時折り雷が鳴り激しい雨が降る8月17日夜、地元羽村市の富士見斎場にて執り行われ、合唱に一生を捧げた故人らしく白門グリークラブ、中央大学グリークラブ、同OB、地元の合唱団体など多彩な参列者が祭壇前に並びました。

斎場入口脇にはご家族と収まった和やかな団欒の写真のほかに、故人の最大の関心事であった合唱関係の遺品である楽譜、指揮中の写真、リコーダ、音叉などが遺族に手により公開されましたが、一同が驚いたのは森田さんの愛蔵品のカメラと鉄道模型の数々でした。森田さんは団員との旅行や合宿でもめったに私的な生活を語ることはなく、長老の団員も「森田さんにこんな趣味があったとは知らなかった」と一様に驚いていました。

通夜には中央大学グリークラブOBが50名近く参列しました。遺族にお願いしてすべての式が終わった後に祭壇前にOB全員が並び、当団団員指揮者である藤澤賢二さんの指揮で故人も深く愛した「遥かな友に」と大学学生歌「惜別の歌」を献唱して、森田さんにお別れをしました。

森田さん、これまで本当にありがとうございました。お疲れ様。安らかにお眠り下さい


3月

●加藤さんを訪ねて慰問演奏会を開催(2012年3月04日掲載)
 既報ですが、加藤さんがリハビリ中の「さくら会」を23人の団員が訪問し、入居者、通所者やご家族、施設でケアする方々70名の前で演奏をしました。当日は朝から寒い曇りでしたが、発起人の西山さんたちの号令で13:40には全員が集合。控え室では加藤夫人の明代さんからお差し入れいただいた飲み物を頂いて2階の会場に向かいました。久しぶりに会う加藤政章さんは最前列でニコニコと団員らと握手を交わしてくれました。
 前半はアカペラで「いざたて戦人よ」、「からたちの花(山田耕筰)」など4曲、中間に「ふるさと」と「赤とんぼ」を全員合唱し、後半は大庭直子さんの伴奏を入れて、「箱根八里」、「平城山」、「サランヘ(韓国歌謡)」、「川の流れのように」、「斉太郎節」、クロージングに「今日のひととき」。さすがに加藤夫人が「アンコール!」と間合いのいい声を掛けて下さったので番外編として「はるかな友に」で締めくくりました。
 聞いて下さった方々はみな高齢者でしたが、全員合唱では歌詞カードを手元に私たちと一緒に笑顔で歌ってくれました。最後に数人が加藤さんを囲んで記念撮影。


2月

加藤さんを訪ねる慰問演奏会(2012年2月15日掲載)
  往年の二枚目団員として女声合唱団のメンバーの嬌声を一身に集めた加藤政章さんが病に倒れて20年以上も経ちます
 が、今もリハビリに勤しんでいることは団員全員が知っているところです。
  現在加藤さんが復帰に励む施設を訪ねて、加藤さんと入居者に男声合唱を聴いていただこうという企画が2月14日の練
 習中に同期の西山和夫さんから提案されました。なお加藤さんは近々退院の予定だそうです。

 期 日  2012年3月4日(日) 14時から
 集 合  会場にて同日13:30
 会 場  社会福祉法人「さくら会」
       品川区南大井5-19-1
       http://www.sakurakai.jp/
 最寄り駅 京浜東北線・大森駅 徒歩15分程度
 服 装  ユニフォーム、青紺のタイ、楽譜可
 曲 目  希望の島、平城山、サランヘ、オーラリー、箱根八里ほか 愛唱歌を中心に10曲程度を予定


久々に新人入団(2012年2月15日掲載)

絶えて久しかった新入団者です。

昭和39年・理工学部卒の七戸良雄さんが同期の飯田昌男さんの誘いで2月7日からベースとして練習に参加しました。さる大手企業の海外担当管理職として、タフな外人相手とやりあう毎日で磨いた英語とスペイン語はネイティブ並み、と飯田さんの話です。これを聞いて動揺しているのが、同じベースの宮本康幸さん。これまで団員の無知に付け込んで英語の発音を指導していましたが、「うっかりしたことは言えなくなった」と蒼ざめています。

 名門・洋光台男声合唱団の団長を務めた経歴も手伝って、急速に大物の地位を固めていくのではないか、と団員が噂をしています。多趣味で付き合いもよく、温厚な人柄ですが、同人誌ではペンネームで健筆を振るい、すでに小説の著書もある文化人です。



1月

●次期演奏会実行委員会第1回会議を開催(2012年1月23日掲載)
 キックオフミーティングとして1月22日18時から、清水ホールにて開催しました。
 出席者 
坂田、桜井、宮本、高木、酒井、中村、吉野、野口、辰巳、 (順不同) 
 ※実行委員9名のほか、引継ぎとして飯田昌男前委員長と矢澤由行さん(会計担当)が出席しました


 18時から坂田委員長の準備した書面に従って議案を審議しました。
 1. 各委員の役割分担
では議案に一部修正が施されました。
 2. 飯田前委員長と矢澤前会計から実行準備に当たっての詳細な助言がありました。
 3. 高木さんから技術委員会で検討中のステージ構成と選曲候補が報告されました。
   松本先生とすり合わせの上、3月までには団員に選曲が報告されます。
 4. 開催までの年間スケジュールを委員長が作成し、早い機会に団員に通知されます。
 5.
 次回会議は3月6日に開催します。今後は原則月1回の開催ですが、演奏会開催が近づくと随時回数を増やす
   ことにします。


2011年


12月

現役グリークラブが定期演奏会を開催(2011年12月26日掲載)
 12月24日、中央大学グリークラブが第57回定期演奏会を渋谷区のオリンピック記念青少年センターホールで開催しました。
 部長の黒田君によればほぼ満員の盛況であったようで、何よりです。

 白門グリークラブからも14名の団員が聴きに訪れました。
(芳名帳から:敬称略) 
 清水軍治 井上博之 高木辰夫 萩原利治 志田雄司 野中忍 千葉紘弥 立山誉人 城所英嘉
 海外義次 塩田勝彦 中村眞一 野口五郎 辰巳則夫夫妻


●外部からの出演依頼について
  先の総会で決定した新ルールの下に新しいページを作成してあります。トップページの右下の「出演依頼はここをクリック」のリンク先をご参照下さい。そのページの一番下に団員が申請用に使う書類がPDFファイルで出てきます。団員はそれを印刷し、必要事項を記入して提出して下さい。不明の点は宮本まで。


2011年度総会開催 (2011年12月14日掲載)

 今年は年末の懇親会を総会と切り離して12月4日に開催したために、総会を単独で12月13日夜に港区内の清水ホールで開催しました。
 総会開始の19時までの出席団員は29名。団員登録者34名の過半数を上回ったことを確認し、団員は総会議長に昨年に続いて萩原利治さん(バリトン、左写真)を指名した後、議案の審議を行いました。



来年度は会費値下げ

 塩田勝彦会計マネジャー(セカンドテナー)から、今年度決算では有償の参加行事が多かったためにこれまでの最高額となる次年度繰越金が出たことが報告され、これに伴い来年度1年間の予算案では月会費を現在の4,000円から3,000円に減額して団員の負担を軽くすることも可能だ、と塩田さんから提案されました。

 多額の費用がかかる可能性のある演奏旅行の発生もあるだろうからこのまま月会費を維持して現金を多く持っているべきだ、いやその際は別途会費を徴収すればいいのではないか、との意見が出ましたが、採決の結果、月会費を3,000円に減額することを決定しました。

▼懸案の演奏旅行も
 来年度活動計画では世田谷白門会、港区音楽祭のほか、まだ企画途上ではあるものの、沖縄白門会(藤江英輔氏講演会を予定)、佐久白門会、長野県中川村コンサート、学員会千葉支部、同小金支部(千葉県)なども候補に上がりました。

▼団長に千葉紘弥さんを再任、ほか全役員も留任
再任された千葉団長

 席上、2005年から依田団長の後任として第3代団長を務めている千葉紘弥さん(バリトン)が、在任が長期にわたること、若手に引き継ぎたいことなどを理由に退任を申し出ました。

 しかしほかに立候補者もないこと、初代団長の石井さんの在任40年に6年間は比べればまだまだであり、72歳はまだ団内では若手である(西山和夫さんの意見)ことから再任を望む声が圧倒的に多く、数人の団員から出された動議を採決した結果、千葉団長はじめとした全役員を再任しました。

 千葉さんもこれを受諾、次回演奏会に向けて益々活動を活発にしたい、と抱負を述べました。


▼次回演奏会実行委員長に坂田信一さんを選出
坂田実行委員長
 次回の演奏会は2013年5月前後に予定していますが、執行役員会で人選を進め、坂田信一さん(昭和46年卒、ベース)に非公式に打診したところ、内諾を得ていました。総会席上で総務マネジャーからこれまでの経過、人選の理由を報告し、正式に第18回演奏会実行委員長に選出されました。

 「第17回演奏会が終わった今年5月には、もう白門グリークラブの次回演奏会はあるまい、と思っていました。しかし皆さんの『斃れるまで歌う』という意欲を知り、自分でお役に立つのであれば、と引き受けました。昭和43年以降卒11名で実行委員会を組織するつもりです」と意気軒昂な受諾挨拶がありました。



▼次回演奏会のステージ構成の中間報告
技術委員長の高木辰夫さん(トップテナー)からはこれまで松本宰二先生を含めて検討してきた第18回演奏会のステージ構成案が報告されました。シューマン「詩人の恋」、黒人霊歌、日本の流行歌、日本民謡の4ステージですが、日本民謡では衣装や打楽器にもこれまでにない工夫を凝らして来場者を楽しませたいようです。会場はこれまでと同様に北区・北とぴあを予定します。

▼エンブレムを団員に無償配布
高木辰夫さんから今年一年間のCD販売状況、松丸清さん(ベース)から同じくネクタイ、エンブレムの在庫が報告されました。
エンブレムは2005年に30点を追加制作したのですが、直後の2006年1月になって定時練習で使っていた三浦ピアノビル地下の居酒屋「くまもとや」の撤収工事中に、その倉庫から20点余りの未使用品が発見されました。この結果、現在55点もの在庫があります。
その一方で団員の着用するエンブレムにかなりの劣化が見られるため、討議の結果、現在の団員に無償で1点づつ配布して更新することとしました。
なおこれからの新規団員には従前どおりに@2,600円で販売します。

▼組織の一部改正と外部出演ルールを確認
現在の団内組織は2007年に決定されましたが、業務の硬直化や一部組織の非効率化が見られるために総務マネジャーが見直しを進めていました。報告どおりに了承されました。
また外部からの出演依頼に対する対応には時折りルール違反が見られるために、あらためて実情に合わせたルール(執行役員会と団員の了承を得ること、数名の有志出演でも白門グリークラブ名を使う場合には承認を得ることなど)を策定しました。

昨年に続いて議長を務めた萩原さんの進行ぶりは手際がよく、「昨日は酒を絶ち、今夜に備えていたんだ」という言葉通りに見事なものでした。その萩原さんを慰労し、信州から総会に参加していた米澤博文さん(セカンドテナー)を迎えて、銘酒「今錦」を楽しむために浜松町駅近くの「和田浜」で14人が参加して懇親会を楽しみました。


●創団50周年記念宴を開催(2011年12月9日掲載)

本来なれば昨年中に開催すべき「創団50周年記念宴」。今年春の第17回演奏会を控えていたために開催は今日となりました。
来賓22名、団友6名、団員32名、家族8名の合計68名が西新宿のハイアットリージェンシー東京・センチュリールームに正午に集合、団歌、千葉紘弥団長のあいさつ(森田敏昭さんの祝意メッセージ代読)、ご来賓の小山章三先生の祝辞、石井秀之初代団長の乾杯発声で開宴。賑やかに3時間の懇親を楽しみました。

鈴木順子さんの透き通った声の懐かしい童謡「ゆりかご」、「おかあさん」で落涙、会場で初演された「桃源郷」では練習不足を露呈(小山先生、スミマセン)、今年5月に初演した多田武彦先生「ふるさとの夜に寄す」から2曲、愛唱歌2曲、そして最後は90歳をとうに超えながら元気溌剌とした日本合唱界のドン、青木八郎先生が振る「秋のピエロ」で締め括りました。

途中では松本宰二先生が指揮、愛唱歌として披露した「平城山(ならやま)」を聞いた青木先生が、「これは俺も好きだ。振らせろ」と再演の一幕も。また昨年5月の韓国演奏旅行でお世話になったソプラノ歌手、李恩順先生からも松本先生を通じて祝意が寄せられました。

▼ご来賓
小山章三先生、いづみ夫人ご夫妻
青木八郎先生
薮田桂二・秀子さんご夫妻   薮田義雄先生次男夫妻
玉井 哲・祖子(もとこ)さんご夫妻  薮田義雄先生の長女夫妻
鈴木順子さん(元うたのおねえさん、当団ボイストレーナー)
牛山丈嗣さん  声楽家、ピアニスト
五十嵐 玲子さん ピアニスト
野中 忍さん(団友)
松本 宰二先生、慶子夫人  常任指揮者ご夫妻
大庭 直子さん 当団専属ピアニスト
田中 禮子さん(青廊会)
西野 牧子さん(同)
釜島 弥生さん(同)
飯田 美津代さん(港区音連・童謡唱歌を歌う会)
波江野 信子さん(故・波江野淳氏夫人)
高木 繁雄さん(団友)
小川 勝久さん(団友)
堤 浄司さん(団友)
岡部 裕章さん(団友)
丸亀 英雄さん(団友)
黒田真也君(中大3年 ベース) 
小池元洋君(中大3年 バリトン)
本橋卓実君(中大2年 バリトン)

ご家族として、石井喜美子さん、依田好子さん、中嶋茂子さん、中村冨美枝さん、星博美さん、坂田則子さん、宮本真知子さん、辰巳裕子さんの8名が出席しました。

坂田信一さん(ベース・昭和46年卒)を2013年春に予定される次回演奏会実行委員長として内定したことが報告されました。

  現役学生を交えて歌う白門グリークラブ団員、指揮は松本宰二先生。
  詩人薮田義雄さん長女の玉井哲・祖子さん夫妻、、ご次男の夫人
  秀子さんに囲まれる小山章三先生、いづみ夫人。
  久しぶりに団員の前に現れた声楽家、鈴木順子さん。
  牛山
丈嗣さんさんの伴奏で懐かしい童謡を3曲歌ってくれた
 左は石井秀之初代団長、右は青木八郎先生。  常任指揮者の松本宰二先生と慶子夫人。



2011年12月に「創団50周年記念宴」、懐かしい顔ぶれも (2011年11月15日掲載)

 正確には「創団50周年+1周年記念宴」です。本来は昨年度が50周年でしたが、第17回演奏会を控えていたために1年間延期しました。内助の功の奥方たち、休団あるいは退団した団員、これまで作品を提供して下さった作曲家の先生方らをお招きすることにしています。

開催概要
 期 日  2011年12月4日(日) 12:00より約2時間30分
 会 場  西新宿・ハイアットリージェンシー東京 地下宴会場
 会 費  団員一人8,000円、家族一人4,000円、団友一人5,000円
 その他  小山章三先生作曲「桃源郷」の初演
 参加者 団員約35名、家族約10名、団友約10名 
      現役学生4名、交流団体など招待者約25名      合計 80名程度
      ※ 団友とは、過去に当団に在籍し相当期間活動を共にした方、休退団者を含む。

 
・ご出席予定の方々(招待者、団友 順不同)
  ・鈴木順子さん(歌手、元NHKうたのおねえさん。当日は童謡を数曲歌っていただきます)
  ・松本宰二先生 ・大庭直子さん ・青木八郎先生 ・五十嵐玲子さん(ピアニスト) ・野中 忍さん ・高木繁雄さん 
  ・小川勝久さん ・堤浄司さん ・岡部裕章さん ・丸亀英雄さん田中禮子さん(青廊会) ・西野牧子さん(同) 
  ・釜島弥生さん(同)
 ・波江野信子さん(故波江野淳氏夫人) ・小山章三先生、いづみさん(同夫人)
  ・湯原節子さん(赤羽・ライラック元経営者) 演奏会チケットの大量販売で寄与
  ・飯田美津代さん(港区音楽連盟・童謡唱歌を歌う会) ・薮田桂二(薮田義雄氏令息)さん夫妻
  ・玉井祖子(薮田義雄氏令嬢)さん夫妻


昭和44年卒団組らが広島で池本寿嘉さんの墓参に(2011年10月31日掲載)

中央大学グリークラブで1967-69年まで2年間学生指揮者を務めた池本寿嘉(いけもと・かずよし)さんは昨年5月に惜しまれつつ亡くなりました(既報)。それから1年半経ち、同期の塩田勝彦さん(当団セカンドテナー、OB会会長)さんが声をかけて昭和44年卒組を中心として10名の中大グリーOBが池本さんが眠る広島の霊園を墓参しました。

うち7名が10月29日の朝、東京駅に集合して新幹線で広島へ。吉住浄さん(バリトン)は福山市の元勤務先事業所を訪ねた翌日に広島駅に、石川県七尾市に住む玉川さん(セカンドテナー)は新大阪経由で広島駅に、後輩である宮本さんはANA機で広島空港から広島駅にそれぞれ参集しました。

折からの雨、傘を持たないメンバーも数名いたため、駅構内の遺失物販売会で200円の忘れ物傘を買い、タクシー3台に分譲して池本さんのご自宅に向かいました。

ご自宅は広島駅から30分ほどの佐伯区美鈴が丘にある高級分譲住宅の一角。そこで奥様と会い、すぐに池本さんが眠る霊園に直行。10分ほど離れた高台にある霊園、「石内下墓苑」(左写真)に到着しました。まだ新しい黒御影石の立派なお墓は池本さんが10年ほど前に作ったものでした。

小雨の中、お線香を上げた10名は代わる代わる池本家のお墓に手を合わせました。最後に、ほかに人影もない墓苑で池本さんの冥福を祈り、全員で「遥かな友に」を合唱しました。奥様は涙ぐんでいました。

待たせていたタクシーで再び池本さんのご自宅へ。大変立派な邸宅であり、玄関の左にある池本さんの音楽室で1時間ほど奥様を交えて懐旧談にしばらく花が咲きました。室内は池本さんの遺影、膨大な数のLP、CDや楽譜のコレクション、巨大なスピーカーなどで埋め尽くされていました。

池本さんは中大を卒業した直後の1969年に国立音楽大学に学士入学。卒業後は地元の広島に帰り、1年後に教員採用試験に合格、その後は一貫して音楽教諭、吹奏楽指導者としてめざましい活躍を続けます。勤務する県立高校吹奏楽部を何回も全国コンクール決勝まで進めさせ、「広島県音楽界に池本寿嘉あり」とまで言われました。

「朝から晩まで、そして一年中片時もじっとしていたことがなく、最後まで走り続けた主人でした。発病から亡くなるまで僅か2ヶ月でしたが、一切の治療を拒んで吹奏楽の指導を続けて、亡くなる1ヶ月前にも演奏会の指揮まで務めました」と笑顔で語る奥様。

「6年前に広島を訪ねて池本と市内を歩いていると、ひっきりなしにあいつの携帯電話が鳴るんだ。いったい誰からの電話だ?と聞くと、これがみな教え子なんだよ。卒業後も音楽だけでなく、いろんな相談ごとを時間に拘わりなく池本に寄せていたことが強く印象に残っているな。教え子にとても愛されていたんだよ」と塩田さん。

「練馬区の石神井公園に近い三宝寺池畔に池本が借りていた離れがあったんだ。1部屋しかないんだが、部屋を占領しているのがグランドピアノ。ある日、すき焼きパーティをやって同期の連中はみな酔いつぶれたんだが、俺や何人かはピアノの下で寝たんだ」と吉住さん。

「あまりに熱心な指導なので、マスコミでも物議を醸したことが何回もありました」と苦笑しながら語る奥様。「ある教え子の女の子は練習から帰宅すると"池本を殺してやる"と家族に叫んだこともあったそうです」

しかし塩田さんから聞くと、その教え子たちからの信頼は極めて厚く、今でも墓前には教え子たちが供える花と線香の煙が絶えないそうです。一教諭、一音楽人として駆け抜けていった池本さんの霊安かれ、と祈らざるを得ませんでした。

ホテルに入り、昭和44年卒同期会を市内の繁華街、仏壇通りにある和食「雑草庵 安芸」で開催。一期後輩の樋浦耕衛さん、3期後輩の宮本康幸さんも加わりました。以下はその際の写真です。女将が合唱好きと分かり、頼まれもしないのに希望の島、遥かな友にを10名で合唱しました。同期生で今も合唱団で歌っているのは埼玉県の鈴木智さん(トップテナー)、白門グリークラブの塩田勝彦さん(セカンドテナー、練馬混声でもテナー)、高山宏さん(セカンドテナー)、中村真一さん(ベース)だけでした。

翌日の30日も雨。5人が呉にある大和ミュージアムへ、他の5人は小畑さんに先導されて、海上にある朱塗りの大鳥居で有名な宮島に観光に出掛けました。宮本さんは15時過ぎのANAで、塩田さんはじめ9人は広島駅16時発の新幹線でそれぞれ熱い思い出を胸に帰郷しました。

▼沖原と愉快な仲間たちの超私的日記
 池本さんが県立高校教員を退職する記念として開催された2007年5月5日の演奏会、その後の懇親会中の池本さんの写真もあります。
http://blog.goo.ne.jp/namiu2006/e/921763aefd8ab76b524bf2035aab67f6

▼安佐南区音楽祭2009
 2009年2月14日広島市安佐南区民文化センターで行われた安佐南区音楽祭の映像です。生前の池本さんが、やすにし吹奏楽団を指揮しています。最後を除きずっと後ろ向きですが、若い頃と全く変わっていません。
http://www.youtube.com/watch?v=pdhkAtfBUVA 

▼池本寿嘉・黒田修 追悼コンサート
http://www.youtube.com/watch?v=_pdjn5yyka8

墓参を終えて同期会で楽しむグリーのOB達(市内の「雑草庵 安芸にて)
  (左から)鈴木智、宮本康幸(S47)、樋浦耕衛(S45)、中村真一、玉川和秀、佐藤英明、吉住浄、小畑幸生、高山宏、塩田勝彦の各氏
1968(昭和43年)8月に行われた夏合宿(長野県岡谷市・湖山館)にて4日目朝、2kmのジョギング後に撮影したものです。佐藤英明さんは出走直前に逃亡、中村真一さんはこの日は不参加だったようです。ほぼ半数の団員は下駄やサンダル履きで走ったので、足指の皮がペロリと剥けてしまいました。古い写真のため劣化もあり、鮮明でないことをお許し下さい。


2011年12月に「創団50周年記念宴」を開催決定 (2011年10月25日掲載)

 本来は昨年度が50周年でしたが、第17回演奏会を控えていたために1年間延期しました。内助の功の奥方たち、休団あるいは退団した団員、これまで作品を提供して下さった作曲家の先生方らをお招きすることにしています。招待状は10月上旬に順次発送されました。

▼開催概要
 期 日  2011年12月4日(日) 12:00より約2時間30分
 会 場  西新宿・ハイアットリージェンシー東京 地下宴会場
 会 費  団員一人当たり8,000円、家族一人4,000円、団友一人5,000円
 その他  小山章三先生作曲「桃源郷」の初演
 参加者 団員約35名、家族約15名、団友約10名 (ここまで有料)
      現役学生5名、交流団体など招待者約15名      合計 80名程度
      ※ 団友とは、過去に当団に在籍し相当期間活動を共にした方、休退団者を含む。
        活動とは、定時練習、演奏会、演奏旅行を指す。

2年ぶりにOB会総会・懇親会を開催(2011年6月22日掲載)
 2011年6月19日11時より東京・西新宿のハイアットリージェンシー東京で中央大学グリークラブOB会総会が開催され、80名のOBが出席した。
 総会冒頭では幹事長の辰巳則夫君(昭和48年卒)が司会を担当、同会会長・塩田勝彦氏(昭和44年卒)が挨拶に立ち、全国から集まったOBと開催に尽力した幹事らを労った。その後に議長には蜑コ知勇君(昭和63年卒)が選出された。
 なお2年前同様、OB会活動を知ってもらうために現役学生6名も総会から参加した。

議案審議
 ・2年間の活動報告
 この2年間におけるOB会、傘下の白門グリークラブ、同・Chor '99、プロジェクト・ナーガス、現役学生らから活動報告があった。特に白門グリークラブは昨年結成50周年を向かえ、今年5月にはその記念演奏会を開催し、結成12年目のChor '99も7月末には第4回目の演奏会を開くとの報告があった。なおプロジェクト・ナーガスは団員らが若く多忙なため現在は活動休止中であると報告された。
 
・会計報告
 五十嵐力会計幹事(平成2年卒)から2年間の収支報告があった。会員の高齢化、若手会員の入会伸び悩みを反映して年々会費収入が減少し、傘下団体への補助金も削減せざるを得ないなど厳しい報告となったが、決算を了承した。
 ・役員改選
 大蔵純事務局長(昭和47年卒)から新任幹事として秋元哲夫君(昭和58年卒)、松村貴之君(平成14年卒)、大厩諒君(平成18年卒)が推薦され、これを満場一致で了承した。
 
・ML構築
 副幹事長の竹内一夫君(平成3年卒)からは、現在OB会幹事会で導入しているML(メーリングリスト)をOB会全会員にも利用してもらうべく、現在その構築について作業中であると報告された。今秋の団会報誌であるメンタルハーモニーの発行から試行実施、完成を2年後の次期総会までに行う予定である。
 なおネット環境にない会員向けには従来どおりに紙ベースでの会報誌送付、総会案内を行うこととしている。

 以上のような報告をすべて了承し、12:00に総会を終了した。
総会開催に奔走した辰巳則夫幹事長 開会で挨拶する塩田勝彦会長 意欲的にML構築に携わる竹内一夫副幹事長
左から柳下議長、塩田OB会会長、辰巳同幹事長、大蔵同事務局長 議案審議中のOB会会員と執行部

▼懇親会
 続いて隣室の「桃山」で12:10から懇親会を開催した。これまでの懇親会では毎回MCを担当した宮本康幸君(昭和47年卒)が社用により懇親会途中で中座するために、辰巳則夫君(OB会幹事長、白門グリークラブ総務マネジャー)が総会に続いて進行役を務めた。
 このMCは会員らに極めて好評であり、会員の中から「もう宮本の時代ではないな」という感想まで飛び出すほど。無事仕事を終えた辰巳君は閉会宣言で絶句、落涙する場面もあった。
開宴に先立ち、全員合唱で校歌「草のみどり」を歌う。指揮は現役学生
指揮者の本多秀行君(4年)
初代OB会長・白門グリークラブ相談役の石井秀之さんの発声で乾杯し、開宴する



第17回演奏会を開催 2011年5月23日掲載

 5月22日に北区の北とぴあ・さくらホールで創団50周年を記念した第17回演奏会(実行委員長:飯田昌男氏)を開催し、ほぼ満員の聴衆を迎え成功裏に終了しました。詳細は後日掲載予定です。



ほぼ満員の聴衆を集めて開催された50周年記念第17回演奏会。第1ステージでの団員、松本宰二氏(中央、常任指揮者)、
ピアニストの大庭直子さん

撮影:習志野市「フォトひまわり」 飯田千恵子・筒井夫美・鈴木圭子の3氏


4月

●新潟演奏旅行、番外編 2011年4月27日掲載

 紳士のたしなみにダンスがあります。昔のまともな日本男児にはそのような素養もあり、しかるべき場所では女性に敬意を払いながら自分も楽しむという節度ある交際が見られたものです。で、そういう人とそうでないヒトの区別は簡単です。
上品にジルバを楽しむ白門の鑑、井上博之さん ダンス"もどき"を楽しむ某副団長
(特定できないようにモザイクをかけてあります:無駄か・・・)

つまり正統なダンスは常に相手の目を見つめ、片手が体から離れ、上半身も離れたりくっついたり(最小限)するものであり、そうでないダンス(もどき)は・・・・・、もうお分かりですね。そう、よりかかるだけです。

※この2枚の写真は井上さん、江畑さんの強い要請により掲載したものです。(写真提供:桜井正夫さん、紺野勝弘さん  新潟市・東堀通り「GTR」にて)

9年ぶりに新潟への演奏旅行を開催 2011年4月25日掲載

 2002年11月に第5回目の新潟演奏旅行を実施して9年。今回はベースの団員である辰巳則夫君のご長男、則史君が赴任先の新潟で結婚式を挙げ、その披露宴にぜひ来て欲しいとの依頼を受けたのが9年ぶりの新潟行きを決めたきっかけです。
 これまで何回も入居者に私たちの歌を聞いていただいた老人保健施設「亀田園」を2日目に訪問することにして参加者を募ったところ、団員26名、休団中の野中忍さん(トップテナー)がこれに応じてくれました。

予定時刻に出発
 集合は4月23日(土)の10:00。朝から小雨の降る中、千葉県、茨城県など遠方から団員たちが集合、予定通りに出発することが出来ました。費用を節約するために中型のバスをレンタルし、千葉団長の会社で大型貨物トラックを運転している中村英人さんが運転を買って出てくれました。
 バスは残念ながらちょっと中年太りの団員たちには窮屈だったようです。途中は谷川岳、小山章三先生の作品「信濃川」にも出てくる魚野川、そして日本最長の信濃川の景色を楽しみましたが、新潟県内は桜がどこも満開、沿道の水田はまもなく田植えの季節を迎えるようです。
雨も降り、肌寒い朝(途中のSAにて) 赤城高原SAにて昼食を取る団員たち


▼余裕をもってホテルに到着
 大震災以降に観光旅行が下火になっていることを実感するほど、関越自動車道は渋滞が一回もなし。途中2回の休憩を入れながら、新潟市内にあるホテル日航新潟に着いたのは16:25でした。私たちとは別に自分の車で長野県佐久市からやって来た依田安弘さん(セカンドテナー)はとっくに到着し、飲物には全く手をつけずに待っていてくれていました。
 辰巳君が準備してくれていた3階の出演者控え室に入り、巻き寿司、サンドイッチ、ミックスフライなどを頂きながら暫時休憩、その後に演奏曲を一通りおさらいして出番を待ちました。

▼塩田さんが体調不良
 いつもはバス、練習、本番前、時と場所を選ばずに駄洒落を飛ばしまくる塩田勝彦さん(セカンドテナー)に元気がありません。控え室でも静かに座っているだけ。どうしました、と訳を聞くと「どうも食あたりのようなんだ」とボソリ。前夜に別の混声合唱団の練習に参加、帰宅途中に食べた490円(!)の天丼がどうもよくなかったようで、集合直前まで腹痛に悩まされ、今も食欲がない、とのことでした。

 (写真左:本番を前に心づくしの接待を楽しむ団員ら 写真右:発声練習の団員たち)

▼予定から15分遅れて本番へ
 ホテル日航新潟は2年前、万代島に国際会議場・朱鷺(とき)メッセの一部として開業。しかし都内のホテル同様に大震災以降は宿泊客も少なく、企業などの宴会もパッタリ、と控え室で従業員から聞きました。
 とかく披露宴は時間が押し勝ちですが、今日の披露宴もその例に漏れず、本番は15分遅れの17:50となりました。30階にある会場は西側に大きな窓を取り、日本海と佐渡島が一望できるはずでしたが、新潟も朝から煙るような雨。眼下の市街地が見えるだけで、遠景を楽しむことは出来ません。
 司会者(私ではありません)の紹介で入場。披露宴ではいつもそうなのですが、中年、初老、古老の男ばかりが紺のブレザー姿で大勢現れるのはインパクトがあるようで、会場から静かなどよめきが上がりました。
 10年前の中国演奏旅行に辰巳君が帯同した細君、裕子さんとも久しぶりにお会いできました。肝心の新郎、則史君の顔の長さは父に似ず、ごく常識的(笑)であり、しかもなかなかの男前。おそらく細君のDNAを受け継いだのでしょう。

▼コーラス分解を交えて4曲を演奏、塩田さんのソロも完璧
 ここで新郎の父、則夫君も団の列に加わりました。前触れなく「いざ起て戦人よ」で、まずざわざわとした会場を驚かせます。毎回のことながら、このやり方は私たちに耳目を集中させる効果抜群です。指揮は藤澤賢二さん(トップテナー)。新婦のご友人たちでしょうか、若い女性ばかりのテーブルから大きな声の応援も入ります。
 ついで辰巳君の要望でもあった男声合唱の分解。名曲「希望の島」をトップ、セカンド、ベースの順に聞かせ、最後に常日頃白門グリークラブのお荷物と呼ばれるバリトンの頼りない旋律を聞かせるのですが、今回は汚名返上を心に決めていたのでしょうか、バリトンは期待はずれの(笑)一糸乱れない歌唱となりました。「これらの違う旋律を一緒に歌うと、こうなります」という演出も効果がありました。
 3曲目の長渕剛の「乾杯」で締めくくり。先ほどの若い女性軍団だけでなく全出席者がノリノリで聞いてくれているのが分かりました。
 体調が心配された塩田勝彦さんはそれを微塵も感じさせない素晴らしいソロを聞かせてくれました。「うっかり腹に力を入れると漏れそうなので、尻の穴をキュッと締めて歌ったのがよかったようだ」と、“塩田唱法”の奇妙な解説も。
 辰巳君が事前に仕込みをしていた甥御さんのタイミングのよい「アンコール!」を受けて、アメリカ歌曲Aura Leeを最後に演奏。大きな拍手を頂いて退場しました。
 辰巳君はおおいに新郎の父として面目を施したであろうと思います。団員全員に「辛口麒麟山」のお土産までいただきました。

30階の会場で演奏する団員(ソロは塩田勝彦さん) 新郎の父、辰巳則夫君(中央)も熱唱

▼先輩OBの店に21名が繰り出す新潟の夜
 この日の公式日程は終了。数名の団員が体調不良と寝不足を訴えてホテルに戻るほかは、21名がタクシー分乗で、昭和36年に卒業したOBの本間さんが経営する新潟市内のスナック「鹿」へ。スナックが入っているビルは東堀通りにあるライオンタワービル。驚いたことに2階から最上階の9階まですべて飲食店のビルでした。肝心の鹿は4階。
 さすがに21名は同時に入れないため、本間さんの配慮でビルのオーナーさんが経営する6階のスナック、「GTR」も貸し切りとして、団員はどちらに入っても、何回往復しても同料金の3000円ということに。
 管理人の小生と高木辰夫さん(トップテナー)と依田安弘さんは「鹿」に入る前に交差点反対側の蕎麦店で、海草を練りこんだ名物、へぎ蕎麦を食して臨みました。
 9年ぶりに会う本間さんは髪こそすっかり白くなりましたが、数年前の大手術の予後もよく、「酒は変わらずに飲んでいるよ」と大喜びで迎えてくれました。ここには明朝訪問する亀田園の高野崇先生、桂子さん夫妻も加わりました。


スナック「鹿」に繰り出した団員ら OBの本間さんも大いに楽しむ
「鹿」にお出でになった高野先生夫妻と依田さん 鹿の剥製の下に、馬さんが・・・


▼坂田さんが会場を代えながら熱唱する新潟の夜
 今年初めまで休団していた坂田信一さん(ベース)がこの夜は、これまでのストレスを発散するかのように大熱唱。あれ、こんな歌まで歌えるんだ、と団員たちもびっくり。普段は低くぼそぼそとしゃべる声が、歌うときはあくまでも明るく響きました。居合わせた団員たちは高齢のお母様の看病や自分の定年退職までの心労に思いを致し、ややシンミリとなったのであります。次回の演奏会では彼のために少し長めのベースソロの機会を与えてやらねば、と指揮者の藤澤賢二さんも心に決めたようです。
 しかし坂田さんはそんな思いも知らずに、ひたすらマイクに向かうばかり。「おい、もう交代しろ」と長老から叱声を浴びて一旦姿を消しましたが、どっこい、6階の第二会場に移って歌い続けたようです。
鹿」を追い出された坂田信一さんはGTRでも熱唱 6階にある第二会場「GTR」でも大合唱

▼第二会場でも合唱、そして・・・
 藤澤さんの提案で、大家さんが経営する第二会場「GTR」に全員が集合して合唱。ママさん、3人の若い女性従業員をたまげさせました。これに気をよくした本間さん、「おい、このビルは最上階まで吹き抜けなんだ。通路に出て歌ってくれないか。」との驚愕提案。
「いいんですか? そんなことをしても」と心配する団員に、「大家さんにも話してOKだと言ってもらっているし、入居している他の店にも迷惑ではないよ」との答えです。
 それでは、と再び団員を「鹿」の前に集合させ、大合唱を開催することとなりました。突然ビルのホールに響き渡る合唱に驚いて店外に出てきた他店の従業員や居合わせたお客さんたちも大声援となりました。

本間さんの提案で吹き抜けホールで歌う

▼いつの間にか消えていた団員数名の行き先は
 藤澤賢二、江畑忠夫さんら数名がいつの間にか姿を消していました。それからしばらく経って藤澤さんから管理人の小生に電話がありました。出張のたびに寄っていた市内のおでん屋さんにいるとのこと。「珍しい食い物もあるし、君も慰労したいから来てくれ」とのご指示。
 しかし聡明をもって鳴る管理人、「どうせ終わりごろに呼んで、勘定だけ割り勘にするつもりだろう」と判断、藤澤さんのセコい誘いには乗らなかったのであります。ところが千葉紘弥団長だけは断り切れずにその店に出掛けて、案の定、支払いだけに加担させられた、と翌朝知ることになりました。
 「白門グリークラブの団員なら、苦しみも楽しみも共ににしなければいかん。もちろん支払いもだ。細かいことを言ってはいけない」と藤澤氏の反省を知らぬ言い訳も聞きました。

▼2日目は亀田園を訪問
 懐かしい亀田園は9年前から増床を重ねたようで、さらに大きくなっていました。高野崇先生ご夫妻に迎えられて到着したのは09:15。記憶にもある部屋で出番を待ちます。やがて「どうぞ、お願いします」とのスタッフの方の案内で2階のホールに向かいました。
 ほとんどの入居者の方が集まってくれたのでしょう、100名以上のお年寄りたちが大きな拍手で私たちを迎えてくれました。スタッフの司会で全員合唱を含む10曲、アンコール2曲を聴いていただきました。ご病気を患う方も多かったのですが、どなたも熱心に聴いて下さいました。特にアンコール曲の「斉太郎節」には盛んな手拍子も加わり、私たちを感激させました。

亀田園を9年ぶりに訪問した団員たち 全員合唱で「ふるさと」と「花」を歌う


▼多田武彦の「雨」演奏で議論も
 演奏直前になって一度解決していたはずの「雨」演奏に反対する意見がまた出ました。高齢の方々の前で「静かに死んでいこう」という詩が入る曲を演奏するのは望ましくないのではないか、と言うものです。その場でしばらく賛否両論が続きましたが、同行していた本間さんの「芸術作品と割り切っていけば、それでいいじゃないか」との一言で、予定通りの演奏を決定した一幕でした。

▼身に余るお土産まで
 演奏を終わって辞去する直前に、男性スタッフから「これは前理事長の大屋先生から、皆さんに」と越乃寒梅一升瓶2本を頂戴しました。そのうえ、高野先生から全員に越乃寒梅四合瓶とお弁当の贈呈まであり、団員は只管恐縮するばかり。
 高野先生ご夫妻、数々のご配慮をありがとうございました!

▼帰りの車中では
 一路東京池袋へ。北陸道に入った直後のサービスエリアで桜井正夫君がすかさず紙コップを購入、大矢先生からいただいた一升瓶2本の越乃寒梅も1時間でなくなる有様。ついには、酒を飲まない星智明さん(ベース)、野口五郎さん(バリトン)、吉野守良さん(トップテナー)が持っていた四合瓶にまで手を出す始末です。
 団員も年を取ったな、と感じたのはトイレ休憩の数の多さです。亀田園を出発してから5回のトイレ休憩となりました。しかしさしたる渋滞もなく、19:05に池袋駅西口に到着し、解散となりました。

さあ、あとは1ヵ月後に迫った第17回演奏会まで休みなしの練習が待っています。


2月

日曜練習を開催(2011年2月15日掲載)

 第17回演奏会を3ヵ月後に控えた2月13日に日曜練習が港区勤労福祉会館で開催され、委嘱作品『ふるさとの夜に寄す』の指導に多田武彦先生が来場されました。(写真は編集中)


全国紙に中川村が登場
(2011年2月9日掲載)

 団員の米澤博文さんが住む長野県中川村が日経新聞の取材を受け、1月26日夕刊に掲載されました。塩田勝彦さんが購読中に発見し、その記事が管理人に送られてきましたので、転載します。






2
010年

12月

●塩田さん、ナビなしのBMWで下見に(2010年12月22日掲載)

 この記事は、ご本人の希望で倉庫入りしています。

有志が「中川村 御柱祭写真展」を観覧に(2010年12月8日掲載)
 
紺野さんの写真展を告知するハガキ
 いささか旧聞に属するが、8名の団員が長野県伊那郡中川村を数年ぶりに訪問したのは今年11月27日-28日である。かねてより団内では写真愛好家、名カメラマンの誉れ高い紺野勝弘氏(バリトン)が取り溜めていた神事、「御柱祭」の作品を一挙公開するのに合わせ、その取材地である中川村を訪問したのである。
 
 早い話が、紺野氏の写真展にかこつけて老悪童たちが酒を飲みに行った、ということである。
 
 その一部始終を名文家として知られる(ことのない)海外義次氏(トップテナー)が編集子に原稿として寄せてくれた。幸いというべきか、最近はろくな話題もなかったので編集子は悪文と覚悟しつつ不承不承、掲載を決断したのである。
 
 だが、編集子に渡された記録文は今どき珍しいB-4サイズ、1ページに印字されたもの。浜松町駅近くの居酒屋で一瞥した編集子、文も読まずに「これではいちいちキーボードを打たねばなりません。デジタルデータで下さい」と海外氏に依頼したが、なんと入力に使った機器は“ワープロ”(文豪とか書院という類のワープロ専用機。市場からはとうに姿を消している)であったと判明した。つまりデータでもらってもPCでは読めないし、Eメールにも添付できないものである。
 
 「はあ・・・、海外さんはまだワープロなんて使っているんですか」と居合わせた団員7名はあっけに取られた。因みに海外氏はちゃんとメールもするし、一応ネットユーザーである。
 
 なんでわざわざワープロを使う必要があったのだろうか。しかも用紙がグローバルスタンダードに反するB-4サイズ。白門七不思議である。
「あるものは使わなくちゃいけませんからね」と海外氏は涼しい顔で答えたが、誰も二の句が告げない。
「いまどき、よく印字用のテープや感熱紙がありましたねえ」と辰巳氏が嘆息する。
 
 ともあれ、ネタ不足であることに変わりはないので以下に掲載をすることにした。なお編集の都合上、記録の正確性を保持したまま、明らかに文意の通らない箇所、誤字脱字、句読点の挿入、不要な修辞句の削除、改行位置の訂正など最小限の変更を行ったことをご了解願いたい。
 
●白門有志『中川村 御柱祭り写真展』観覧ツアー記録
 
日時:平成22年11月27日(土)〜28日(日)
参加者:8名(敬称略)
     T1・・・藤沢、海外
     T2・・・西山、米沢(編集子注:米沢氏は中川村に住む)
     B1・・・紺野、江畑、熊木
     B2・・・辰巳
行程:11/27(土)・・・車2台で出発 西山車・・・西山・江畑・海外・辰巳
                      藤沢車・・・藤沢・熊木
    ※紺野氏氏 11/27(土)・・・新宿からの路線バス利用
 
11月27日(土)
陣馬形山頂上から望む中央アルプスの絶景 写真展会場にて紺野さん(前列中央)、米沢さん(同左)と
当夜の献立 宴会を楽しむ団員たち
食堂でのミニコンサート 米沢酒造の前で。ドウダンツツジが紅葉の最盛期
 
 千葉県新検見川を千葉在住組(江畑、海外)が西山氏の車に同乗して出発する。京葉道路、首都高速が土曜日にも拘らず空いており、当初より早く9時30分頃に錦糸町インターを一旦降りて辰巳君が乗り込む。一路高速道路で中川村に。途中、藤沢氏の車と連絡を取り合い、諏訪湖PAで合流して休憩。
 
 天候が快晴で道路も空いており、一般道路に降り、岡谷『湖山館』(注1)跡に行き小休止。うなぎの『あらかわ』(注2)では昼食を取らず、杖突峠にある蕎麦店へ。諏訪湖が一望できる景色のいい店では二八蕎麦にマイタケのてんぷらを添えた昼食。
 
注1 中央大学グリークラブが長年夏合宿を行った岡谷市の施設。元々は大きな材木商の館であったが、その後に取り壊されて現在は公民館になっている。
注2 諏訪湖畔にあるうなぎ料理の専門店。1960年当時は若い女性従業員も多く、某団員がその一人を密かに手漕ぎボートに乗せて夕刻に湖中央へ出たが、風の影響で湖畔に戻れなくなり、所期の目的も達せずにようやく帰還したのは夜の練習が始まった直後。風紀委員長のN氏に鉄拳制裁を受けた事実がある。
 
高遠経由で中川村にある米沢氏宅へ到着。休憩後も快晴なので陣馬形山頂上まで車2台で行く。頂上は雲ひとつなく、北アルプス、中央アルプス等360度の景色に満足する。地元の米沢さんも「こんな快晴は滅多にない」と。
 
眺望を楽しんで再度米沢氏宅で休憩。囲碁対局後、紺野さん撮影の「中川村御柱祭写真展」観覧のため望岳荘に。7年に1度の大祭の2月「大神木伐採」、3月「山出し」、5月「本祭り」等の展示写真14点、それに伴う展示写真15点、併せて11月16日付の地元紙、長野日報で大きく報道された記事を観覧する。併設展示されたハワイでの写真作品も見る。紺野さんによれば、展示は1ヶ月も続いたとのこと。
 
その後に望岳荘の個室で『忘年会コース料理』に米沢酒造の絞りたて生酒を賞味しながら懇親を深める。石井先輩からお祝い金が寄せられたことが披露された直後に酒の注文が増える。料理は前菜からデザートまで8品の豪華なもの(メニューは写真を参照)。参加者は大満足。
 
その後、急遽望岳荘食堂でミニコンサートを実施する。「いざ起て戦人」等を8名で歌う。居合わせたお客様から拍手。個室に戻るもお客様の中に中大29年卒の方がいることを知り、再度食堂に戻って校歌と惜別の歌を歌う。29年卒の方は落涙する。歌った我々も貰い泣きの感涙を流す。個室に戻ってデザートを賞味する。
 
宴の余韻を楽しみたくて館内のスナック、中川村で唯一女性従業員のいるスナック「うちょうらん」に移動する。偶然にも米澤さんの知人ら多数が居合わせる。ここでも「サランヘ」を歌う。知人らは米沢さんが大学時代にグリークラブに在籍し、今も白門グリークラブに所属していることを聞いて驚いていた。その後に米沢氏宅に戻り、囲碁を楽しんで宿泊する。

※編集子注: 紺野さんの証言によれば、米沢邸は2LDKとのこと。どうやって8人のオジサンが寝られたのでしょうか。「学生時代を思い出したよ」と紺野さん。
 
11月28日(日)
朝食後に米沢酒造の酒蔵を見学。日本酒発酵等の貴重な見学を経験する。中央大学グリークラブとの合同練習参加のために、一路東京へ。道路渋滞もなく千葉には午後3時に到着する。各自の自宅で休憩後に世田谷区にある区立大橋図書館の練習場に向かう。
 
紺野さん、米沢さん、写真展と宿泊ではお世話になりました。併せて運転してくれた西山さん、藤沢さん、安全運転ありがとうございました。
 
番外写真:望岳荘のスナック「うちょうらん」で従業員と楽しむ有頂天の江畑忠夫さん



11月

11月16日の練習報告
練習内容(藤沢氏指導)
@DRY BONES
A多田先生委嘱作品全曲
B懐かしのポップス全曲
 
報告内容
@現役との合同練習日時:11月28日(日)、12月19日(日)、12月24日(ゲネプロ 金)
       18時から21時まで
       場所:大橋図書館(池尻大橋下車)
       注意:12月24日は白門グリーの参加には無理があるとの意見あり。
           理由:前日、白門グリー総会、25日、26日が本番と極めてハードである。
A合同演奏会の費用は23日中に参加者5000円、楽譜のみ1000円を
 各パートごとにパート幹事が取り纏め集金して、塩田氏へ手渡すこと。

11月14日、秋の日曜練習開催
午前
@「Dry Bones」「Evry Time・・・」譜読み練習
A懐かしのポップス全曲練習
午後
松本先生指導
@発声練習
A多田作曲集全曲(曲想付け)
B多田委嘱作品全曲(同)
Cスペインの歌全曲(同)
 
報告事項
@合同演奏費用5,000円を11月23日午後休日練習時にパート幹事に支払う事。
  演奏会不参加者は楽譜代をパート幹事に支払う事。
  パート幹事は管轄パートを「楽譜のみの方」「演奏会参加者」を整理集金して、塩田氏へ渡す事。
A小川さんからスケジュール表配布。ベースの欠席者分は飯田さんが保管。

17回演奏会実行委員会開催

第9回実行委員会議事録

期日 :201011月9日() pm5.30〜6.20

 場所 :清水H

 出席者:藤沢・千葉・江畑・城所・海外・中嶋・高木・矢澤・熊木・立山・飯田

 

  議題:1.プログラム・チラシ・チケット関連(城所・中嶋氏・海外氏 説明・)

  議題:2.演出関連(確認・)

  議題:3.その他(提案・)

次回実行委員会 2010年12月7日(火)Pm5.30〜清水ホール

議題は各自検討して事前に江畑氏へ報告のこと。 

 

9月管理人が1ヶ月ぶりに定時練習へ(2010年9月15日掲載)
褒められたことではありませんが、静岡県に単身赴任中の管理人がほぼ1ヶ月半ぶりに定時練習に出席しました。この日の練習は松本先生の指導による多田武彦委嘱作品「ふるさとの夜に寄する」。
 
芝公園にある練習会場、天光院のドアを開けた瞬間に響く重厚な多田サウンド。管理人が不在中に完成に向けてかなり進んでいるようです。後半の練習は「スペインの歌」のGranada(グラナダ)。
「11月には完成させましょうね」と松本先生の叱咤激励が飛びました。
 
千葉団長からは「Y団員が手術をしたが、経過は良好」との報告に皆、安堵の胸を撫で下ろしました。Yさん、お大事に!
 
信州から米澤博文さんも参加した練習が終わり、米澤酒造の名ブランド「今錦」を楽しむために居酒屋の「和田浜」に向かったのは千葉団長ら9人。1時間余りの清談を楽しみましたが、帰る頃には思わぬ雨に見舞われました。
 
これまでの暑さがまるで嘘のように涼しい夜でした。


8月

●石井夫妻の傘寿を祝う会、100名の出席者で賑わう
(2010年8月3日掲載)

白門グリークラブ初代団長である石井秀之さん、そして奥様の喜美子さん揃っての傘寿と金婚式を祝う会が100名のゲストを迎えて8月3日夜に、西新宿・ハイアットリージェンシー東京で開催されました。詳細は写真入りで後日掲載します。


7月
 
●第3回白門杯争奪コンペ開催(2010年7月20日掲載)
 
 英国のセント・アンドリュースではThe Openが閉幕したばかりですが、我が白門グリークラブのゴルフ部でも石川遼ちゃんにあやかって、7月19日に高齢者コンペが開かれました。会場は宮本康幸氏が勤務する静岡県の名門コース、富士小山ゴルフクラブ(パー72)。
 
前夜祭を開催する18日(日)に渋滞を予測して1時間も早く到着した米澤博文さん(セカンドテナー)が13時前に来場。この日に米澤さんと囲碁戦をするために声を掛けていたはずの藤澤賢二さんを待ちますが、その待ち合わせ時刻を過ぎても藤澤さんは現れません。
 
携帯電話で米澤さんが所在を確認すると、なんと30mほど離れたクラブハウスのビールをやりながらレストランで遅い食事中でした。そこに合流して懇談しているうちに西山和夫、江畑忠夫、辰巳則夫氏も到着。彼らも昼食となりました。
 
宮本氏が車で数分のホテルまで送ろうとした矢先、藤澤さんが目ざとくラウンジの隅にあった碁盤を発見。早く追い払いたい宮本さんの心中をよそに、対戦が開始されてしまいました。結局彼らをホテルに送り届けたのは17時になりました。千葉紘弥団長、中嶋敦氏は別途ホテルに到着済み。
 
夜は246号線沿いの料理屋「よし川」で、宿泊する8人が集まって前夜祭を開催。宮本さんのゴルフ場社長就任を祝う会ともなりました。
 
翌日のゴルフ場は梅雨明け後の夏の快晴。しかし朝の気温は21度と高原の涼しさでした。単身赴任中の宮本氏と宿泊組7名を除く4人、松本宰二先生、井上博之、小松秀洋、それに早朝信州佐久の自宅を出発した依田安弘氏の4人も集合。10:08からスタートとなりました。昼食をはさんで6時間近い熱闘と混戦が繰り広げられた結果、優勝は隠しホールで大叩きをした小松秀洋氏、準優勝は数年のブランクを感じさせない中嶋敦、3位が長年の経験と知恵で頭脳的なゴルフをした依田安弘の各氏となりました。
 
順位は以下の通り。(  )内はネットスコア
優勝   小松秀洋(75.2)
準優勝 中嶋 敦(75.6)
 3位   依田安弘(76.8)
 4位   宮本康幸(79.2)
 5位   千葉紘弥(79.4)
 6位     井上博之(80.0)
 7位   辰巳則夫(80.2)
 8位   西山和夫(81.2)
 9位   松本宰二(81.8)
10位      江畑忠夫(82.0)
BB    藤澤賢二(83.4)
BM    米澤博文(84.0)
 
なおベストグロスは依田安弘氏と中嶋敦氏の90でした。  

10番ホールのスタートを前に記念写真
後列左から:辰巳則夫、松本宰二、藤澤賢二、米澤博文、中嶋敦、小松秀洋、宮本康幸
前列左から:千葉紘弥、江畑忠夫、依田安弘、西山和夫、井上博之




6月

「石井秀之・喜美子夫妻の傘寿を祝う会」開催のお知らせ(2010年6月16日掲載)

OB会有志などを発起人として、首記の会を開催します。OB会、白門グリークラブ、Chor'99 のメンバーにメール、郵送書面で通知をする予定です。



拝啓 今年も各地で梅雨入りが発表されましたが、皆様におかれては益々ご健勝にてお過ごしのことと心からお慶び申し上げます。

さて私たちの大先輩、石井秀之さんが今年731日に満80歳の誕生日を迎えられます。母校卒業以来、中央大学グリークラブ監督、同OB会会長、40年にもわたる白門グリークラブ初代団長、さらに永年母校の就職部長、事務局長、理事をお務めになりました。また内助の功顕著、賢妻の誉れ高い喜美子夫人も今年数えで80歳をお迎えになります。長寿社会の日本とはいえ、ご夫妻が揃って目出度くも健康で傘寿をお迎えになることは後輩の私達にとっても実に喜ばしい限りであります。

そこで石井ご夫妻のご慶事をこの機会にお祝いし、ご夫妻にあやかって出席者全員の健康と長寿を共に祈念しようと、下記の要領で「石井秀之・喜美子夫妻の傘寿を祝う会」を開催いたします。

何かとご多用とは存じますが、ぜひ万障お繰り合わせの上、当日のご出席を賜りたいと存じます。

 天候不順の折、くれぐれも御身お大切になさいますように。

敬具

 

開催発起人

   石井夫妻が仲人を務めたOB代表  西山 和夫(昭35卒)

白門グリークラブ団長(第3代)  千葉 紘弥(昭38)

中央大学グリークラブOB会会長  塩田 勝彦(昭44卒)

中央大学グリークラブ監督     丸亀 英雄(昭47卒)

「祝う会」実行委員会

  委員長・藤澤賢二(昭38卒・白門グリークラブ団員指揮者)

 

                   記

 

・期 日  201083日(火) 午後630分より開宴

・会 場  東京 ハイアットリージェンシー東京 宴会場「平安」(地下1階)

       所在地 東京都新宿区西新宿2-7-2  電話03-3348-1234
       新宿駅西口から徒歩10分、または小田急百貨店ハルクから運行されるシャトルバスで5分
      
 http://www.hyattregencytokyo.com/index_pc.html

・会 費  8,000円(着席ビュッフェ形式。ご飲食と記念品代を含みます)

出欠のご連絡 同封のはがきにて720日までにお知らせ下さい。

<お問い合わせは、白門グリークラブ総務マネジャーの2名へ>


管理人による旅行記 第1日目 (2010年6月2日掲載)

5月29日(土)
カミサンは04:00、私は04:30に起床。晴れ。

朝食を済ませて05:35に銀星交通の車を呼んで国分寺駅まで行く。運転士の話だとこの時間帯は車が少ないので前夜に予約しておいたほうがいいとの事。15分で到着する。
NEXは4割程度の乗車率だ。すぐ隣に八王子から乗ったF澤さんがいた。

昨日の夜から急に鼻炎を発症する。頭が重く、鼻水とくしゃみが止まらないし、テンションも上がらない。やれやれ。

2人ともうつらうつらしながら成田に到着したのが07:52。添乗の倉田、見送りの内田君と会う。京成線が遅れたせいで、30名全員が揃ったのは08:20。ソウル到着後の行動を早くするために、荷物は預託しないことにしていたので、全員が機内持ち込み手荷物にしたのだが、予想以上に液体物制限が厳しい。私もほんの僅か容量を超えたフェースクリームの持込を拒否される。

12:40によく晴れたソウル・インチョン国際空港に到着する。流石にアジア最大級ハブ空港だ。でかい。入国手続きで列に並ぶが、かなり処理速度に差があり私は最後から6人目となる。中国人が並ぶ列は非常に遅いのだ。1日早く到着していた松本先生夫妻が我々を出迎える。

13:45に、数名の喫煙が終わるのを待って空港を出発する。気温は東京よりやや低く、過ごしやすい。空港からインチョン大橋を渡り、京釜高速道を南に走る。日本より鉄道網が行き渡らない分、自動車道の整備は素晴らしい。翌日と最後の日も高速道を走ったが、ほとんどが片側4車線以上はある。一般道も広く、渋滞は一度もなかった。

15:05に烏山(オサン)郊外にあるレストランItalianoに到着。韓国側受け入れのオペラ歌手、李恩順先生がここで出迎えてくれる。彼女のお母様が経営するレストランは開業してから8年になると言う。ごく簡単な昼食だと聞いていたが、フルコースのランチだった。

イタリアンでありながら、辛いおかずやキムチが合間に出てくるのがいかにも韓国らしい。京釜高速道から一般道、さらに田舎道に入ったところにあるのだが、まず行きずりの人だったら気が付かないような脇道の奥にあるレストランだ。しかしなかなか立派な内装で、従業員の接客もしっかりしている。84歳と言うお母様も出てきてくれたが、とても上品な女性だ。 家柄もいいのだろう、と団員同士で噂をする。

昼食はご招待いただいたので、経営者のお母様や従業員を前にしてお礼に「希望の島」を歌う。

     (写真:左から大庭直子さん、清水軍治さん)

烏山市文化芸術センター正面の威容
ここから15分ほどで市内の烏山文化芸術センターに到着する。ソウル南56kmにある烏山は典型的な農工混在の地方都市だが、センターは実に立派な建物だ。地元青少年合唱団の子供たちの母親と思えるご婦人方、指導に当たっているプロ歌手(あとでそうだと分かった)の女性たちの案内でステージに近い控え室に入る。

17:40から合同演奏のリハ。ホール席に行くと、青少年合唱団(Osan Youth Choir)が練習の最中だった。殆どが小中学生、しかも女の子たちだ。夜に開催された交流会で李恩順先生から「せっかく合唱に親しんでも、12歳の小学校6年生になると受験勉強のためにほとんどが退団していくんです」との嘆きを聞いた。韓国は日本では想像できないほどの受験、進学社会なのだ。

ここでは日本の「ふるさと」、韓国国民歌曲「故郷の春」、そして「アリラン」の3曲を子供たちや、指導のプロ歌手たちと歌う。私の左隣は美貌のソプラノ歌手だった。アリランのソロを歌う彼女の隣に立つとは役得である。

オペラとミュージカル曲集(7曲)ではまだステージングにもたつきがあり、松本先生を悩ませることになった。

松本先生を公演直前まで悩ませたステージングはなんとか成功
本番は19:30から。小さな街だけに入場者の数が気になったが、定員800人の殆どが埋まる盛況である。

暗いステージ袖で30名の子供たちと出会い、出を待つ。私たちのステージはチョゴリを着たこの地元の子供たちと手を繋いでの入場なのだ。サッカーゲームの入場のようである。だが、なんとかわいらしい子供たちだろうか! 女の子たちはみな髪をキュッと後ろに結い上げている。私たちを見上げて緊張気味に「アンニョンハセヨ」、ぴょこんと頭を下げる。

子供たちと一緒に入場、一緒に聴衆に頭を下げたのち、子供たちとハグする。子供たちは下手に捌ける。



松本先生の心配をよそにステージングは大成功!! 誰が仕込みをしたのか、観衆からはアンコールの声の嵐である。韓国歌謡の「サランヘ」、そして「箱根八里」を歌う。

海外さんの敬礼(上の写真を拡大)が、ドリフターズの「ドンモ、スツレイスマスタ」風であることに注目!

終演後の交歓会。記念品を受け取る千葉団長、いや、渡しているのかな?。


終演後にロビーでストームが始まる。ストームなんて学生時代以来だなあ。その後にロビー脇でYouth Choirの子供たち、保護者のお父さん、お母さんたちらと日韓交流会を1時間ほど楽しむ。

児童たちのお母様たちが持ち寄ったのお餅、チキン、海苔巻き、ビールなどが並ぶ。薔薇の花、韓国海苔とワインのギフトを子供たちからプレゼントされる。お礼に数曲演奏する。

合唱団ユニフォーム姿やチョゴリ姿の子供たちは実に礼儀正しく、そして日本から来た我々に節度ある好奇心一杯で接してくれた。

当地を出たのは22時。ソウル市内のLotte City Hotel Mapoに着いたのは23:20。シャワーだけ浴びてベッドに。だが、鼻炎で頭痛も起きていて眠れない。辛い夜を過ごす。



管理人による旅行記 第2日目 (2010年6月2日掲載)

5月30日(日)
演奏旅行の2日目だ。鼻炎は昨日ほどではないが、くしゃみが止まらない。

昨年開業したばかりのロッテシティ・ホテル

8時。2階にある朝食のレストランNARUへ妻とピアニストの大庭嬢を伴って向かう。既に大半の団員が朝食を取っている。

紺野さん、起床直後に足の小指をベッドの脚にぶつけて生爪をはがして大出血、西山さんは深夜に数名で居酒屋に出掛けて地下鉄の階段で転倒する有様。

石井さんと並んで食事をしていたいた団員指揮者の高木さんが私を手招きしている。母校の学長兼総長である永井和之先生がいらしていた。母校剣道部の海外遠征試合に同行して偶然にも同じホテルに投宿していたのだ。今日の午後のフライトで帰国する氏に挨拶をする。

Hさんがレストランに現れた。麺類を注文を受けて作るコックの前に立ち止まり、なにやら会話を交わしている。困ったような顔をしたコックが気のせいか私に助けを求めているようだったが、その視線を避けて料理を取ってテーブルに進む。 レストラン内に散らばっている団員の様子も問題はなさそうだ。

部屋に戻るエレベータ内で海外氏から、シャワートイレの不調を聞かされる。「一切添乗員業務はやらない」と決めていたが、長年の習慣でつい現場を見に行くことになる。

用便後にボタンを押してもお湯がお尻に向けて噴き出ないというのだ。まさか、再現のために「今デカイのをちょっとやって下さい」とも言えず、自分の部屋から修理部門に連絡をする。後で中嶋さんに聞くと、すぐに来てくれたそうだ。

16:30まで自由行動である。外はいい天気だ。ガイドの宋さんの巧みな提案で、追加料金2000円を各自が払って22名がバスをチャーターして南大門市場と明洞(ミョンドン)に出掛けることにする。

▼早くも出た! Hさんネタ・・・
その集合時のロビー。某団員氏がニヤニヤ笑いながら近付いて来た。
「まさか、Hさんのことで?」と機先を制すると、 「そうなんだ!」と笑いを噛み殺している。

練習時だけでなく、合宿や過去の海外演奏旅行でも必ず話題を提供するH氏。事前の部屋割りには苦労した。結局男子単独参加者が奇数になってしまったので、団長に了解を求めてシングルルームにしたのだが、それはそれで心配でもあった。

某団員氏の話。

昨夜、ホテルに入ってベッドに入ったH氏。部屋の照明のうちベッド脇のスタンドが明るいままのことに気が付いた。だがその消し方が分からない。立ち上がり、ドア脇にある電源に差し込んでいたカードキーを引き抜いた。

当然、すべての照明は消える。これでよしと暗い中、ベッドに潜り込んだH氏。今度は明け方近くになって小用を覚えて目を覚ます。だがまだ外も暗く、当然電源を切ってしまってある室内も真っ暗。どちらにトイレがあるのかが分からない。

そこで氏はベッド脇のナイトテーブル下にある非常用の懐中電灯を手に取った、と言うのだ。その明かりを頼りにトイレにたどり着き、便器とイチモツの相互距離と角度を懐中電灯で照らして確認し、用を足したという。

確かにどの客室にも非常用の懐中電灯はある。だが、だが大抵はクローゼットの中か、ナイトテーブルの下にひっそりと置かれている。Hさんが、よくその存在に気が付いたものだ。

「そんなものの存在に気か付くくらいなら、その前に電気スタンドの電源スイッチに気が付くはずだけどね?」と某団員。 確かにその通りだ。

ところで誰からこの話を聞いたんです?と聞くと、Eさんだと言う。それで近くにいた彼に真偽を確認すると、間違いなく本人からそう聞いた、と言うではないか。 ま、笑い話ですむ話ではある。

22名は10時にバスに乗って出発し、まず南大門市場に向かう。国宝第一号でもあった壮麗な崇大門(通称、南大門)は2008年2月に放火されて木造部分が全焼。今も工事用の高い塀が巡らされて復旧の最中であり、全貌は見えない。 当初韓国政府は修復に2-3年を要すると発表していたが、この調子ではさらに数年を要するだろう。

2号門から中に入り、ほぼ中央にある京城商會という土産物屋を再集合場所として解散し、自由行動とする。15年前と変わらず、まだまだコピー商品が氾濫している。

盛んに客引きの男たちが「社長、いいニセモノあるよ。中に来てよ。奥でも見せるよ」と袖を引っ張るが妻も私もコピー商品には興味がなく、無視する。 しかしそのコピー商品、店頭だけでなく、道路の真ん中に店を出している露店にもあるわ、あるわ。フィギュア、靴、靴下、大小のバッグ、財布、スカーフ、時計、ベルト・・・。
(右写真:左から大庭直子さん、石井秀之さん、宮本真知子さん)

南大門市場の賑わい 店頭には堂々とコピー商品が並ぶ

それにしても快適な気温だ。市場内の散歩を楽しむ。妻は露店の若い女の子が販売している玩具を愛犬のために買う。ふと思いついて靴店に入る。もちろんコピー商品の店ではない。Championのウォーキングシューズを9万ウォン(約7000円)で買う。だがつり銭をたくみに誤魔化され、10,000ウォン少ないことに店を出てから気が付く。 もと旅行のプロとして恥ずかしい。

団員の大半は再集合場所の京城商會で韓国海苔、高麗人参茶、怪しげな健康食品や薬などをしこたま買い込んでいる。

1時間後に明洞(ミョンドン)に向かう。ここも賑やかな商店街だが、南大門市場に比べるとずっと洗練された商店が並ぶ。東京では新宿、渋谷あたりの趣だ。 ここで、あかすりエステ店に行く妻と別れる。
  (下写真:明洞商店街の中心にて)



洗練された明洞のショッピング街。若い人が多い。 夜もご覧の人通りである。

▼明洞で若い娘と抱き合う

一人で歩いているうちに奇妙な光景に出くわした。両側に商店が並ぶ広い道路の真ん中に一人の若い女の子がプラカードを手に掲げて立っている。それだけなら通り過ぎるのだが、そのプラカードには、青いペンギンの絵と、Free Hug(無料で抱きしめます)という大きな手書き文字が書かれている。

無料で抱きしめ?だと・・・。

「何のために君はここにいるの」と近寄って尋ねる。 自分の行動が段々とあのHさんに似てきた。
「動物愛護と絶滅防止のためなの」と彼女。

「ははあ、じゃ、抱きしめ合ったらその報酬として寄付金を募っているんだね」と聞くが、
「ううん、そうじゃないの。ただ環境保護の重要性に気が付いてくれればいいんです」 (ここまですべて英語)

つまり金は要らない、と言うのだ。改めて彼女を見ると、身長175cmはありそうな大きな子。年齢は20歳前後か。だがニコニコとしていて、とても何か企んでいるようには見えない。人通りも多いから、抱きしめ合った後にどこからか恐いお兄さんが出てきて、「俺の女に何するハムニダ! 落とし前を付けろ!」とはなりそうにもない。

それでも念のために周囲を見渡し、じゃ、とおもむろに抱きしめ合った。 いや、抱きしめられた。 シ ・ ア ・ ワ ・ セ 。

それだけ。何となく、可笑しくなって笑い出してしまった。後から想像したのだが、彼女の周辺に数人の女の子たちがカメラを構えていたので、「こんなプラカードを掲げたら、誰が何を言いに来るでしょうか」なんていう身内のイベント企画だったのかもしれない。写真かビデオを見て今頃、笑っているのかも。

ソウル名物、1時間で出来る眼鏡屋に行き、度付きのサングラスをオーダーする。さすがに1時間と言うわけには行かないらしく、今夜の23時までにホテルに届けるとのこと。283,000ウォン(約2万3千円)。 フレームもレンズも韓国製である。

我々と別行動を取っているはずの団内反主流派6人(西山、江畑、辰巳ら)とは南大門だけでなく、ここ明洞でも会う。日本人の行動パターンは結局同じなのである。

ガイドが予約した焼肉店「ウリナラ」にに22名で繰り込む。一番安いCコースで一人40,000ウォン(約3,200円)のカルビ、ロース食べ放題。だが高齢者の集団だけに、入店時の意気込み程は食えないものだ。30分ほどで敢えなく満腹。盛んに従業員が「もっとカルビはどうですか」とテーブルを回るのだが、皆「もういい、もういい」とゲップをしながら手を振る。
(下写真:左から小松秀洋さん、藤澤賢二さん)



1時間余りの昼食を終えて14:30にホテルに戻る。妻はエステを終えてガイドと昼食中(サムゲタン)のはずだ。一人で1時間ほど昼寝をする。鼻炎は続いており頭痛もある。

16:40にバスでソウル長老教会に向かう。ツタの絡まる礼拝堂入口には韓国白門会から贈られた大きな花輪が置かれていた。控え室での発声とステージング練習の後に別棟の食堂で軽食をいただく。

京畿長老教会の外観 同教会の礼拝堂

教会入口で韓国白門会から送られた花輪を前に全員で記念写真を

ここでは昨日のOsan Youth Choirのピックアップメンバー23名がプロ歌手と弦楽アンサンブルでミサ曲を演奏、私たちは昨日と同じ曲目を演奏する。さる有名建築家の作品でもあるこの教会、内部はコンクリートの打ちっ放し。簡素な作りで、祭壇前のステージ相当部分も狭いのでステージングは中止して、歌だけにする。


聴衆は100名ほど。「兵士の合唱」では昨夜同様に聴衆や子供たちの大きな手拍子も入り、ついステージングの成果を披露したくなる。

演奏終了後にこの教会の牧師さんが登場してハングル語で謝辞を述べた(と思える)。彼の希望でアンコールの「サランヘ」を聴衆と一緒に歌う。石井さん、「涙もろくなっちゃってさ」と又、落涙する。







懇親会での松本先生夫妻、李恩順先生夫妻
韓国訪問中の三宅・元常務理事と韓国白門会のゲストも立ち上がって応援歌を歌う


20:45に終演し、そのまま懇親会会場に向かう。15分ほどの距離のレストランは大林亭。その2階が会場で、日本の居酒屋チェーンの座敷そっくりである。定番の韓定食。我々が着いて程なく、李恩順先生の夫君である金氏(ノ・ムヒョン前政権時代の側近)、韓国白門会の4人も三宅・元常務理事と到着する。 予定より数が増えて慌てて席を増やす。

大したことはないだろう、と高を括っていた韓定食。味も量もまずまずである。韓国焼酎の真露が一番売れる。

同窓会のメンバーはいずれも若いがそれぞれ経営者、幹部としてソウル市内のホテルやIT企業で活躍中である。実に頼もしい限りだ。

三宅元常務理事が同窓会メンバーを紹介した後に校歌、応援歌、そして学生歌でありながら日本全国に知られる「惜別の歌」を肩を組み歌う。

石井初代団長、ここでも感動極まって涙を流す。


帰りのバス内で石井さんのエピソード、特に15年前の現役グリーの監督として欧州演奏旅行を率いた時に、万が一に備えて100万円の札束をいくつか腹に巻いて出掛けた話を披露する。

石井さん、「いや、学生のときだけじゃなくてこの合唱団の海外演奏のときにも必ず持っていたんだ。今回だってそうだよ」と苦笑い。

部屋に戻ると高木さんから「反省会だ。ちょっとラウンジで飲もうよ」と声が掛かる。閉店が近いので彼と石井さんと妻との4人で2階のバーで30分間だけ飲む。

00:30就寝。今日も長い一日だった。やや喘息気味で痰が絡む。数年に一回ある気管支炎なのかも知れない。



管理人による旅行記 第3日目 (2010年6月2日掲載)

5月31日(月)

明け方に熱を出したらしく、ぐっしょりと寝汗をかいていた。そのおかげか、かなり体が楽になっている。

ピアニストの大庭嬢は先に朝食を済ませていたので妻と2人でレストランに向かう。今朝は曇りで、明け方に雨があったようだ。

どうも10名近くの団員=老悪童たちは昨夜の帰館後、またまたカラオケ店に繰り込んだらしい。添乗員のK君も道連れに。挙句、ガイドから教えてもらった料金システムと大分違って高額の請求があった、とぼやいている。それなのにカラオケ店の女性ホステスといちゃついている姿をデジカメで見せながら、品定めをしている。夜の街にルールはないのだよ、と皮肉る。

9時にホテルを出発して李王朝時代の宮殿、景福宮へ。月曜の朝とて道路は車で一杯であるが、主要道路は片側3-4車線もあり、東京の渋滞に比べるべくもない。アジアの他の大都市と異なり、きれいな車(ほぼすべてが国産車)が多い。

李王朝の正宮だった景福宮。南側の興礼門が入口 堂々とした大統領官邸、通称「青瓦台」



















景福宮は何回か建て直しがあったようで、現在の建物は非常に綺麗である。永年中国文化の影響を受けているので、前回の中国演奏旅行で訪ねた北京の紫禁城全体のレイアウトによく似ている。だが大きさは紫禁城とは比較にならない。徒歩で1時間近く城内を見学する。冬は厳寒なので、国王や王妃の居所、寝所はオンドル暖房であり、床下に薪の炊き込み口と外壁際には大きな煙突がある。 続いて大統領官邸のある青瓦台へ。特派員や記者がレポートするあの場所だ。官邸正面の門を過ぎて200m先のバス専用路側帯で降りて、歩いて正面ゲート前に戻る。いたるところにスーツでノータイの私服警官が無線機を持って立っている。我々のジャケットにある団のエンブレムを訝しそうに見つめていた。

官邸の敷地。その広いこと、広いこと。日本の総理官邸なんて庭の一部にしかならない。圧倒的権力者のいる場所なのだ、と思い知る。官邸の後ろは切り立った岩山の北岳山がある。天然の要衝なのだが、1968年に北朝鮮のゲリラ兵がこの山を下って官邸に侵入しようとした事件があったそうだ。

この場所ですら、あの北朝鮮との軍事境界線(国境とは言わない)まで40km足らずしかない。朝鮮戦争は終わったのではなく、休戦中なのだ。のんきな日本人男性観光客が警邏中の制服婦人警官と記念写真を撮ろうとして近付いたら、「あっちに行け」と体よく追い払われていた。

官邸付近は緩やかなカーブを描く道路脇の植栽が実によく整備されていて、いいドライブウェイである。

これで観光は終わり。1200万もの人口を抱える韓国の首都としてはそれほど見るべきものはない。日本が統治していた時代の朝鮮総督府の建物が取り壊されてしまったのは残念である。

市内のレストランで昼食。ビビンバとチヂミ、それにおかずが数品。昨日の懇親会でOBや母校の元常務理事から頂いた祝い金40万ウォンを飲み物代に充てる。

そこから高速道に乗り、空港への途中で一旦降りて韓国食品店でショッピング。キムチ、コチジャンなどを皆が買う。私も余ったウォンを妻に渡して自由に買わせる。

そこからさらに40分で仁川国際空港へ。JAL956便で成田空港には19:37に到着する。

鼻炎はかなり軽くなったが、今度は右耳が聞こえにくくなった。鼻のかみ過ぎが原因だろうか。

百聞は一見に如かず、というが今回の旅は短いながらもその思いを新たにした。9年前の北京と上海の発展ぶりに驚いたが、韓国もまたすさまじい発展を遂げている。接するソウル市民、音楽関係者は皆実に礼儀正しく、遠来の我々を温かく歓迎してくれた。メディアの報道する韓国の姿がすべての韓国の今と未来を表すわけではないのだ。
(これで終わりです)




李恩順先生からメール
 (2010年6月1日掲載)

今日の午後に李先生にお礼のメールを送りました。返信が来ましたので、掲載します。
カメラをソウル長老教会に忘れて来た団員はいませんか?(写真は公演終了後の李恩順先生と松本宰二先生)



 皆さん全部健康だとは安心です。

 Osanと同じ小さい都市の子供たちには夢を持つように
 することが重要だと考えて合唱団を作りました。

 音楽は傷ついた魂を治癒する力があります。子供たち
 は音楽を媒体として、美しい声と音楽を作り出して自信
 を持つようになりながら、音楽が好きで愛する心を持つ
 ようになりました。

 音楽を通じて成長させた愛が人に向かった愛で発展す
 る時から、一層美しい世の中になることを確信しています。

 GLEE CLUBの皆さんとの素敵な舞台を子供たちも胸に
 大事に保管して、立派な人生を生きていくことができる
 だろうと考えます。

 追伸> ひょっとして団員方達の中で教会でカメラをなく
 した方がおられますか。 私が保管しています。


団員方々に深い感謝を申し上げて、美しい出会いを熱く胸に刻みます


●速報 まずは写真2枚 (2010年月06月01日掲載)

  写真はいずれも烏山文化芸術センター大ホールにて撮影。

オペラ・ミュージカル曲集から「見果てぬ夢」 合同演奏「アリラン」 中央は李恩順先生


5月

9年ぶりの海外演奏旅行から帰国 (2010年月5月31日掲載)

 団員ら30名は事故もなく、いつものように数々の珍事件を起こしながらも予定通りの日程を終えて、今日19:37に成田空港に到着しました。旅行記をご覧下さい。

明日から9年ぶりの海外演奏旅行へ
(2010年月5月28日掲載)
 第5回烏山(オサン)青少年合唱団演奏会のゲスト団体として、団員28名が家族とともに5月29日に韓国へ向けて出発します。
 日程:
 5月29日(土) 10:00 日本航空951便でで韓国・ソウルへ
          ソウルの南56kmにある烏山市文化会館大ホールで演奏
          (指揮::松本宰二)オペラ・ミュージカル曲集(見果てぬ夢、兵士の合唱、巡礼の合唱、メモリー他)
          演奏会終了後、ホールで日韓交流の集いを開催
 5月30日(日) 19:30よりソウル長老教会で演奏会
          終了後に李恩順先生夫妻ら関係者や韓国白門会代表を招いて懇親会
 5月31日(月) 出発までソウル市内観光
          17:35 日本航空956便でで帰国の途に
          20:00 成田空港に到着後、解散


男の休日はかくあれ 塩田勝彦さんの場合2010年月5月15日掲載)

  4月29日に管理者に寄せられた、塩田勝彦さんのメールです。


 今日は祝日で仕事は午前で終了。文京区弥生町の『立原道造記念館』へ行ってきました。 東大の弥生門の正面にあり、『弥生美術館」、『竹久夢二美術館』と隣接しています。

弥生、竹久美術館と共通のチケット1,100円を払って入場しましたが、入り口の黒い石に来年の演奏会で初演する多田武彦さんの作品にある 「やさしいひとらよ たずねるな」の詩が彫ってありました。この詩はやはり立原の代表的な詩なのでしょうか?心して歌わねばならぬと心に誓いました。

受付嬢は教養のありそうな僕の好みの女性でしたので、つい「来年立原さんの詩の合唱曲を歌うんですよ。」なんてH先輩みたいな余計な会話をしてしまいました。 床面積15uほどの展示室が1F,2F, 3Fに分かれており、立原の自筆の詩、遺品等が展示されていました。彼は本業は建築家ということで、設計関連の展示もありました。

隣の弥生、竹久も行ってみましたが、こちらは中年以上のご婦人たちで込み合っていました。静かにゆっくり見られた立原とは対照的でした。

帰りは東大構内を横切って帰りました。やはり威厳がありますね。新入生の家族みたいな人たちが大勢いて、記念写真を写しておしました。

白門の人たちも興味があったら行ってみるといいでしょう。ネットで検索すれば地図が出てきます。


立原道造記念館 http://www.tachihara.jp/index.html 

(下の下の写真はいずれも塩田さんが撮影したものです)
立原道造記念館入口にある詩碑 隣接する竹久夢二美術館
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