2004年

6月

中央大学グリークラブ創立秘話(2004年6月21日掲載
▼1961年第6回定期演奏会プログラムより
(改行位置を変えてあります)

 昭和28(1953)年に
卒業し母校学友会に
勤務する傍ら、グリー
クラブ監督を務めて
いた石井秀之さん。
撮影1961年。
 吾がクラブが所属している音楽研究会は、昭和二十一年公認されました。というのは音楽研究会の所属である学友会が明治44年に創設されながら当時の法律という堅い学校のためか、苦学生が多かったためか質実剛健の校風をあらわし片寄ったものであり洋楽関係の如きは終戦直後まで公認団体として認められなかったのです。

 昭和26年11月音楽研究会の混声合唱団に所属していた有志十名余により「ホワイトゲイト・メンネルコール」が設立され、音楽研究会の外郭団体として発足しました。これがグリークラブの前身であります。


 翌27年4月正式に所属を許可されると共に「音楽研究会男声合唱団」と改め活動を開始したのです。吾々は大学生活に或る種のうるおいを求めて入学しましたが雑踏と喧噪とそしてマスプロ的な学園には静かな憩いの場すら与えられず、ニコライの鐘のみを唯一の楽しみとして学んで参りました。しかしけっして吾々はこの悪環境にめげず、理解ある先生方の指導のもと、よき先輩の励ましとにより、これに立ち向いすこしでもうるおいのある生活を志して練習に励んだのであります。同年直ちにコンクールに出場、伝統を誇る諸大学をしり目にA級にくい込み、中大恐るべしの感を抱かせたのであります。翌28年から青廊会に定期出演、29年合宿地千葉県館山市で招待演奏を、31年コール・ユニオン結成と除々に演奏活動を広げ、32年には念願のリサイタルを開くことが出来るまでに発展いたしました。

 しかしながら本音楽研究会はあくまでアマチュアの学生本来の姿を堅持すべく営利的興業に対しては一切協力することを厳重に禁じております関係上、本リサイタルも4回までは入場無料、5回以後は社会福祉事業に寄附という形で行っているにも拘らず、皆様の御支援により聴衆は年々増加し昨年は予想外の成績をおさめることが出来ました。 叉演奏旅行は32年より始めましたが、34年名称を「中央大学グリークラブ」と再度改め心気一転、本年は念願の北海道遠征を試み、名地で好評を得てまいりました。(以下省略)



 1951(昭和26)年11月に創立された直後の
「ホワイトゲート・メンネルコール」のメンバーたち15人。その後の中央大学グリークラブだけでなく、私たち白門グリークラブの源となった人たちです。
(1952年2月9日、駿河台の西園寺公望邸にて。西園寺公爵はその晩年は駿河台本邸,京都清風荘,興津坐漁荘,御殿場別荘の間を定期的に行き来した)

●久々になつかしの写真を当時のプログラムから(2004年6月21日掲載)
▼40年余り前の定期演奏会プログラム
 長野県在住の団長、依田安弘さんが定時練習に大事そうに持ってきたもの、それは1961(昭和36)年と1963(同38)年の定期演奏会プログラムでした。郷里の長野に夫婦で戻ってからずっとしまいこんでいた古文書を時折整理しているうちに見つけたものでした。管理人は当時小学生で、中央大学の名前も知らない頃のものです。

 昭和30年代当時の大学男声合唱団でも100名を超す団体はそう多くなかったと聞いていましたが、依田さんから拝借して帰宅しページをめくったところ、大変な団員数です。プログラムからスキャンして掲載します。今は初老になった多くの白門グリークラブ団員が当時は20歳前後の若者としてステージに立っています。さて誰がどこにいるかお分かりでしょうか。なおこの当時はすでに白門グリークラブが創立されています。
(下の写真は縮小写真です。クリックすると大きな写真にリンクします
1961(昭和36)年第6回定期演奏会プログラムに掲載された写真です。おそらく前年の1960年第5回演奏会で撮影されたものと思われます。団員は108名でした。
神田・共立講堂にて。
1963(昭和38)年第8回定期演奏会プログラムに掲載された写真です。背景上部の団旗が左から学習院、中央、日本となっているので、同年6月のコールユニオン演奏会のものでしょう。団員数86名。神田・共立講堂にて。
1963teien-pro1.pdf へのリンク
1963teien-pro22.pdf へのリンク

▼若き日の青木八郎先生


 今年84歳の青木先生もこの当時は40歳を出たばかりの少壮音楽家でした。ついこの前の「こぶしの会」演奏会(習志野文化ホール)で先生にお目にかかりましたが、この写真をみるととても40数年を経たとは思えません。このころから既に「肉を食え!」、「男は風呂に入るときは3回音がしなけりゃ駄目だ!」などと練習会場で団員を当惑(?)させていたのでしょうか。


 当時からお洒落には定評があり、さらにまだ珍しかった自家用車(ダットサン)で練習会場に来ていました。1961年当時の役職は、関東合唱連盟常任理事、千葉県合唱連盟理事、合唱指導者協会委員、砂山合唱団と中央大学グリー常任指揮者。




▼あの大作曲家、清水脩氏も
 日本の合唱作曲家を代表する人と言えば、誰でも清水脩氏を挙げるでしょう。1963年の第8回定期演奏会では清水脩氏作曲の組曲「山に祈る」が演奏されました。氏は写真とメッセージを寄せています。私が氏を直接見たのはまだ大学生のころでした。渋谷で行なわれた日本合唱協会のサロンコンサートの後に、聴衆と懇談会が開かれたときでした。当時の氏はすでに60歳を超えていたでしょうか。大阪外語大でグリークラブ団員として活躍していた氏は、しゃべる声も重低音でした。ある合唱指導者から質問が出ました。

「団員にどうしようもない悪声の持ち主がいるんですが、どのように指導したらいいでしょうか」
 清水氏が何か具体的な指導をしたか記憶にないのですが、最後に苦笑しながらこう付け加えたのは覚えています。
「またそういう声の持ち主に限って、合唱が大好きなんですねえ・・・」
これにはどっと出席者から笑いが上がりました。


●無言忌が今年も6月6日に開催(2004年6月7日掲載)
 式典に参加した依田安弘さんの寄稿です。

《第七回「無言忌」の記》  団長 依田安弘

 
今年の会も例年どおり11時から無言館前庭で開催されました。式次第はいつものように、野見山暁治画伯、上田市長(代理)、遺族代表、そして今年は立命館大学国際平和ミュージアム館長・安斉育郎氏の挨拶があり同館の中に無言館コーナーが設けられたことを報告しておりました。

 窪島館長の挨拶に続いて上田少年少女合唱団、上田グローリア、国際音楽村合唱団、白門グリークラブ(依田、丸亀)の「あなたを知らない」合同演奏。そして最後に戦没画学生石礎「記憶のパレット」除幕お披露目式がありました。

 今年はハプニングが二つありました。まず窪島館長が6年前自信を持って「ここは雨は降りません」と言っていた塩田平にセレモニーの時間に合わせたように雨が降ったこと。

そして今回最大のハプニングは小山先生が今朝ホテルの朝食を済ませた後レストランを出られる際、床の段差に足を取られ捻挫。グローリアの柳沢順子さんに伴われ休日診療で応急手当をされ、会場に車椅子で駆けつけて指揮をされたことです。幸い骨折ではない模様ですが、我々を含めグローリアの千野団長ほか何人かで上田市内で昼食の蕎麦を食した後、千野さんの運転でグローリアの3名が市川のご自宅までお送りしたはずです。大事に至らないことをお祈りします。先生のご自宅には明日にでもTELしてみようと思います。

 尚、「記憶のパレット」の建設に当たっては白門グリークラブも寄附を行いましたので、石礎の側面に建設協力者としてクラブの名前が刻まれております。訪れる機会がありましたら確認してください。


雨中、思いもかけず車椅子での指揮となった小山章三先生と、上田少年少女合唱団、上田グローリア、国際音楽村合唱団、白門グリークラブ


写真提供:いずれも
山岸明人氏

 この日に除幕された「記憶のパレット」  その側面に当団、依田さん、小山章三先生の名も刻まれた

 この日の模様は県下最大の地方紙、信濃毎日でも報道されました。


●今年初めての合宿は夢の島で10月23日から2日間(2004年6月4日掲載)
(左)上空からの全景  (右)4階建ての新棟
 国立オリンピック記念センターでの合宿が非常に取りにくくなって合宿も途絶えていましたが、実行委員会(江畑さん、海外さん)がまったく新たな会場を見つけてきました。東京都の施設で「東京スポーツ文化館」(愛称:BumBぶんぶ)です。以前現役学生たちが合宿に使ったことを聞きつけた江畑さんらが昨日下見をしてきたものです。

 今年の3月31日にオープンしたばかりで、宿泊もできます。最寄り駅はJR京葉線・地下鉄有楽町線・りんかい線「新木場」駅下車、徒歩7分。

 実施概要は次回練習日にて実行委員会から発表されます。施設の概要はここをどうぞ。 一人当たりの費用は6000円程度(ピアノつき練習室、5人用和洋室での宿泊。ただし食事は含まれません)を予定しているそうです。江畑さん、海外さん、ご苦労様でした。



5月

●こぶしの会演奏会に賛助出演(2004年5月16日掲載)
▼依田団長ら37名が参加
 中央大学グリークラブ常任指揮者を昭和26年から20年にわたって務めた青木八郎先生が指導する女声合唱団「こぶしの会」演奏会に賛助出演しました。入梅を思わせるような雨の中、信州佐久市から依田安弘団長、同中川村から米澤博文さん、茨城からは高山宏さんも汗をかきかき駆けつけ、久々のメンバーが揃いました。

 午前9時15分からの発声練習に続き、10時からのステージリハーサルになりましたが、客席で待つ私たちの前では津田沼混声合唱団のリハーサル、先生から「声が小さい!」、「前に出るときによろよろ出てくるんじゃない!」、「そうじゃない、前の練習を忘れたのか、ばかもの」とあらん限りの叱声が飛んでいました。私たちはもちろん、ピアニストの大庭直子さんももまるで本番、いやそれ以上のピリピリした緊張状態で30分間の練習を終えました。終了後も「挽歌」終盤の出来に不安が残り、高木辰夫さんの提案で控え室でも臨時練習が行なわれました。

▼満員の聴衆
 このお天気で聴衆の来場が心配でしたが、さすが千葉県合唱界の天皇。1997年5月の青廊会演奏会以来年ぶりに訪れた会場の習志野文化ホール(定員1545人)はぎっしり満員。市川市から小山章三・いづみご夫妻、今日は参加できない丸亀英雄君、堤浄司君だけでなく、新潟市の本間譲二さん(昭和35年卒)夫妻らも、「ハッチャンが白門グリークラブを振るなら聞き逃せないよ」と姿を見せました。

▼演奏はあっという間の20分間
 当団はロシア民謡集の津田沼混声に続いて2番目の出場。「月光とピエロ」から「U 秋のピエロ」、「X 月光とピエロとピエレットの唐草模様」、インタビューを挟んで先生の作品「挽歌」でした。「挽歌」では2回ほどひやりとする場面もありましたが、まずまずの出来と言えるでしょう。

 ステージインタビューで青木先生に「目の前にいる教え子で出来の良かったのは何人います?」と水を向けると団員たちを眺め回し、「ま、3人だな」(辛口です)。さらに「挽歌と言う作品について一言」と畳み掛けると「いや、駄作ですよ。(音楽の友社の)楽譜も売れなかったしね」と珍しい謙遜の言葉。中央大学グリー以外には大阪経済大学、明治大学の各グリークラブが過去に演奏しています。

▼懇親会も大盛況
 演奏会は16:15に終了。もっとも管理人は出番が終わって本屋に出かけて本を買い、その本を喫茶店で1時間以上読んでいたのでカルミナ・ブラーナの出来は聴き損ねました。

 17:00から津田沼駅を挟んで反対側の船橋市東部公民館で、出演者、来賓など約200名が参加して懇親会が開かれました。八千代少年少女合唱団の澄んだ歌声は真似の出来るものではありませんが、心洗われる思いでした。最後は全員が肩を組み、「はるかな友に」を合唱して19:00散会。千葉県在住の団員はさらに近くで行なわれた二次会に流れたようです。

▼この年には▼
 青木先生は1919年12月22日生まれ。この年にはこんな事件がありました。年表をどうぞ。
 板垣退助が死去し、ベルサイユ条約が締結された年です。う〜ん、遠い歴史のかなたのそのまた向こうですね。
▼付録▼「八郎さん」の息子さんは「一郎さん」、似ています!
http://www.boowy.net/mylife-mytown/02.09.15/jinse.htm



●故・伊比さんの息子さんから一周忌を前にお便りが(2004年5月14日)
 管理人用のメールアドレスに次のようなメールが届きました。(ご本人は公開を了解済み)

 宮城県の伊比と申します。2年ほど前に父の名前でインターネットの検索をかけたところ、こ のHPに出会いました。印刷をして、実家の母に確認したところ同じような写真もあり間違いないとのことでした。入院中の父に持って行ったときは懐かしそうに見ておりました。 そのとき「学指揮」もやっていた、などと母から話を聞きました。当時の演奏会のポスターも少しありました。  
 さて父が亡くなり、はや1年が過ぎようとしています。突然容態が悪化し手の施しようがなかったようです。 今年のGWは一周忌の準備で忙しかったです。 私の息子も「おじいちゃんの乗っているHP」があることが、とても嬉しいようです。
 今後とも更新又、音楽活動でのご活躍を心より楽しみにしています。  急なメールで申し訳ありません。何かございましたら、ご連絡下さい。それでは失礼します。                            
                      宮城県気仙沼市 伊比 卓夫
           (右は、送られてきた故・伊比厚士さんの10年ほど前の写真)
伊比厚士

 メールを下さったのは「白門写真博物館」に収蔵されたこの写真の左端にいる伊比厚士さん(トップテナー、昭和36年文学部卒)の息子さん、卓夫さんでした。インターネットの取り持つご縁で、40年以上も前に卒業された当時の中央大学グリークラブメンバーのご家族からご連絡があった訳です。そこで管理人は故・伊比さんと卒業期が同じか、前後する現白門グリークラブ団員にこれを転送して、伊比さんにまつわる思い出を投稿してくれるように依頼しました。そうしたところ、4人の団員から投稿がありましたのでここにご紹介します。



野中 忍

 伊比さんのことは良く知っています
 小生より一年先輩の36年文学部卒で、パートはT-1です。同期の志田さんと仲が良かったと思います。
 伊比先輩を知らない人は信じられないと思いますが、卒業を迎えても声が変声しないいわゆるボーイソプラノのままでした。そのため、「枯れ木と太陽の歌」(石井歓作曲)のソロは何の苦労もなく、常に伊比さんのソロと決まっていました。又学生指揮者をやっていまして、4年生の最後の定演では伊比さんの友人で作曲家の佐藤さんが作曲した(山村暮鳥の詩)曲を初演指揮しました。
 この演奏会のテープが何十年振りかで出てきまして、オープンリールだったため森田さんにカセットにダビングしてもらい2、3年前に白門グリーのメンバーは全員もらいましたので貴兄も持っているはずです。録音は良くありませんが聴いてみて下さい。なおこのテープをCD、MDにダビングして昨年暮れ伊比夫人に送りました。その礼状に「子供たち(今回のメールの発信人の卓夫さんともう1人)がお正月に帰ってきますのでその時聞かせていただきます」と書いてありました。



志田 雄司

 伊比厚士さんは私と同じ36年卒、最後までボーイソプラノで学指揮をやっていた仲間です。昨年11月18日の練習日に野中さんから「伊比さんが5月に亡くなっている」との報告がありました。加奈子夫人から12月13日に上京するとの電話をもらったので江戸川総合文化センターに出向いてお逢いし、お聞きした内容は白門の皆さんに報告しておきました。
 夫人は山形県鶴岡市在住で江戸川区と鶴岡市の文化交流で合唱指導をしております。その後ホームページのプリントを送ったり野中さんからも昔の資料を送ったりで旧交を温めております。夫人からの手紙では子供や孫達が集まって学生時代のことが楽しく話題の中心になっているし、宮城の子供が白門のホームページをプリントしてくれたともありました。
 伊比君のことは「來ぶらり庵便り」創刊号に一部書いておきましたが、夫人の出身短大名が間違っておりました。東洋音楽短大(現東京音楽大)から上野学園大学音楽部へ編入して大学院を薦められた様ですが4年で卒業、結婚して高校の音楽の先生を続けておられました。
 最近になって高山宏さんと話していて世間の狭さに驚いている事ですが、「加奈子夫人の実家は山形県温海温泉・瀧の家旅館だ」と話していると、何と高山さんの母方のお祖母さんは加奈子夫人の伯母さんらしいのです。


高木 繁雄

 昭和36年卒。第一テノール。その姓の読み方からIch(イッヒ) Liebe(リーベ)と渾名をつけられ、独特の声(歌声はもちろん細くて高いテノール、そしてしゃべる声もテノールだった)とともに、みんなから慕われていました。同級生は、大丸武徳・新潟の本間譲二・志田雄司・松丸清・小松秀洋君達です。
 1959年4月21日発行の”Newly printed”の『特集--新幹事』の紹介に、当時3年生の伊比君が次のように紹介されています。

 「サブコンダクター」伊比厚士 「あまり見慣れない、いや聞きなれない名ですが、イヒアツシと申すおのこ、山形県の出身、高校時代から合唱の虫、また、ボーイスカウトにおいては、全国にもその名は知れ渡っている・・・そうだ。
 合唱団では外国へ旅した唯一の人。ジェームス・ディーンが彼に似ているという良い男。重田君(高木氏注:平成5年6月9日死去)と中大グリーの技術の面を担当するわけだが、その技術をフルに活かし、大いに活躍してもらいたいところ。世に低音ブームと言うが、彼は人もうらやむテノール。これから1年でも2年でも3年(?)でも独特のユーモアを持って振ってもらいたい。」

 Newly Printed は、我々(35年卒)が、4年となって団の運営を3年生に譲り、団の発展のために何かお役に立ちたいという思いで現役とOBの橋渡しをする意味から発行し始めた新聞の名前です。これは全くの造語で、言い出しっぺの私が「印刷したて」という意味で命名しました。1ヶ月に1回のペースで13号まで発行しましたが、全部保存しています。外国旅行は在学中の旅かどうか、はっきりしません。もしかしたら志田君が知っているかもしれません。多分在学中だったと思います。

 写真
の4人は、第1テナーが伊比君(2年)、第2テナーが佐久間君(3年)
バリトンが私高木(3年)、バスが森岡君(3年生)。初めての演奏旅行でステージ構成を盛り上げる(?)ために、恥ずかしながらカルテットを組んで歌いました。 この写真はSixteen Tonを歌っているときです。メロディーがほとんどベースだったので、森岡君がマイクの前に出ていると思われます。当時のマイクの性能はあまり良くなかったですからね。曲はこの他に、Love Me Tender、センチメンタル・ジャーニー、プリテンド、Anchors Aweighなどでした。この写真を見ると今でも伊比君の澄んだ高いテナーの声が聞こえてきます。

藤澤 賢二

 伊比さんは私の1期先輩でした。彼は3年で副指揮者、4年生で非常に優秀な学生指揮者として活躍し、その後に私が学生指揮者になった時は「藤澤、腕は前後に振っては駄目だ。上下に振るんだ」というアドバイスがあったのを覚えています。
 他の人も言っていますが大変高い音を出せるテナーで、難しいソロと言われたあの「枯れ木と太陽の歌」をコールユニオンで演奏したときはソリストとしてステージに立ちました。名演奏でしたね。
 卒業後は山形県の水産高校の教諭として教育現場に行き、音大卒の奥さんと結婚しました。奥さんは鶴岡南高校の音楽教諭として合唱団を指導し、コンクールでも優秀な成績を収めていたはずです。
 山形県人らしく、酒は非常に強かったですね。



●こぶしの会を直前にした練習が青木ホールで(2004年5月12日掲載)
 中央大学グリークラブの初代常任指揮者を務め、第一次黄金期には都内でも有数の大合唱団に育てた青木八郎先生を囲む「こぶしの会」が5月16日(日)に習志野文化ホールで開催されます。それを目前にした練習が、先生の自宅敷地内にある青木ホールで5月9日に開催され29名の団員が参加しました。80歳をとうに超えたはずなのにその指導振りは多くの団員が学生時代に知るハッチャン(先生の愛称)と全く変わらない、いやそれ以上の熱情溢れるものでした。

 演奏会では「月光とピエロ」(堀口大學・詩、清水脩・作曲)から2曲、そしてハッチャンの代表作「挽歌」(矢内原伊作・詩 1968年中央大学グリークラブ定期演奏会で初演)が演奏されます。

 4年前に新築なったホールでの練習  ハッチャンの変わらぬ指揮ぶり

▼練習現場より2人の団員(中村、坂田)からレポートが
練習後は和やかな懇親会
 4月8日に続き2回目の青木八郎先生指導の練習が青木邸に隣接する「青木ホール」にて行われた。練習時間は12:30〜16:00、出席した団員は29名。
 発声練習のつもりではじめた「X月光とピエロとピエレットの唐草模様」であったが、いきなり「上げ弓!」、「体を揺すってくれ!」から始まり、4拍子の「強、弱、中強、弱」の歌い方等事細かな指示に団員も追従できず立ち往生する場面も。結局この1曲で1時間掛かってしまった。その後も「休止符も歌ってくれ!」、「テンポオンチ!」等さまざまな指示(?)が出され、息の抜けない練習であった。
 それにしても先生は病も逃げ出す勢いの元気さで、練習の途中でシャツを着替えることも昔と変わらずの熱血指導であった。しかし、練習後は「こぶしの会」田中さんや菊池さんら団員の方々による軽食+ビールのおもてなしを受けたが、このときの先生はご自分でビールの準備をされるなどやさしい一面も。
(ベース・中村真一)


1.いい音楽を作りたい、と意欲に鬼気迫るものがあった。
2.アマチュア相手に楽しく音楽をやろうとの姿勢を強く感じた。
3.あれだけやられると、僕らが普段やっている練習は惰性でやっているに過ぎないのでは?との問題意識を感じた。
4.白門の今までの演奏は常に緊張感に欠けているのではないかと思った。せめて出だしは合わせる、ブレスは同時には常に気をつけねばと思いました。
(ベース・坂田信一)


●このサイトを生み出した伝説的作業場(2004年5月7日掲載)
 ここには見えませんが、デスク下にもう一つPCがあります。
 ちょっと歪んでいるのと色調の不連続は家が傾いているわけではなく、3枚のデジカメ写真
 を苦労して重ねたせいです。

 どこだかの月刊誌、確か文藝春秋だったかな、「作家の書斎」なんていう連載グラビアがありました。出てくるのは川端康成、丹羽文雄、三島由紀夫、柴田練三郎など文豪ながら故人の書斎ばかり。圧倒されたのは松本清張の書斎でしたね。部屋というより図書館でした。

 まだ私は存命ですが、これに倣って(んな訳ないか)作業場を公開します。新築当時の電源コンセントでは足らずに4つのテーブルタップを使っています


 右端の電話機とキーボードの間にある銀色の平べったいものは10インチのポータブル液晶テレビ(DVDプレーヤー付き)デスクは昨夏に買ったもので奥行きと幅がかなり大きいものです。





●着々と進む依田団長邸の庭園工事、そして初孫の端午の節句(2004年5月6日掲載)
 長野県S市在住の依田安弘団長から近況を知らせる久しぶりのメールがありましたので、写真とともに掲載します(ご本人了解済み)

 土砂崩れの復旧工事でも、縄文遺跡の発掘作業でもありません。なんとパワーショベルまで動員しての本格的工事です。後姿は工事に目を光らせる依田作業監督兼施主。よく似合いますよ。  昨年10月誕生の初孫を抱いて相好を崩す依田夫妻。
 この上ないゴールデンウィークの初節句となったようです

 4月6日に東京の定時練習から帰ってから4月28日まで、日曜を除いて毎日甥の工務店の施主兼助手として古い生垣をチェーンソーで切り倒しフェンスを作り、敷石を敷いたりコンクリートを練ったり、はたまたレンガを高崎まで買い付けに行き、これを門柱に積む作業を手伝ったり、生まれてこんなに肉体を酷使したのは初めてです。
 息子が1ヶ月半イギリスに出張していて4月29日に帰国。そのまま私達のいる実家に直行すると言うので、いわき(福島県)まで息子の嫁さんと孫を連れに行って来て、ようやく工事も28日には一段落できた次第でなんとも慌しい1ヶ月でした。

 しばらく見ないうちに孫も寝返りを打ち、間もなくハイハイをするかと思います。息子は自分の子の成長にびっくりすると同時に、一緒に風呂に入って泣かれて腐っていたようです。
 ここS市では我が家から5分ほどの千曲川河川敷で5月1〜5日までバルーンの全国大会で賑わっていました。すっかり信州も良い季節になったので又是非出かけてください。
 亀は高速が混むと行けないといって寄らずに帰っていきました。日曜日(5月9日)は八ちゃんの所の練習に参加するつもりです。





4月

●港区音楽連盟総会が開催(2004年4月25日掲載)
 長島さん((清水建設男声)を議長として開会、事業計画の説明
 4月23日(金)午後6時30分から男女共同参画センター(港区田町)で港区音楽連盟の2004年総会が開催されました。当団からは理事である管理人のほか、加盟25団体のうち23団体が出席しました。総会では昨年度の事業実績、決算報告、監査が報告されいずれも了承、また今年度の事業計画と予算案が報告され、これも了承されました。

 また新規加盟団体として「エンゼルハート会」(代表・永井とし子さん)が紹介され、承認されました。この会は大正琴の演奏団体で、指導者の矢部三智美(やべ・みちみ)さんから当日持参した楽器も紹介されました。

▼中野前会長は退任清水さんが会長に復帰

 今年は連盟も役員改選期。白門グリークラブに限らずどこでも高齢化は悩みの種のようで、都心の過疎化の象徴のような港区でも音楽連盟はその代表といえるかも知れません。

 出席した管理人を驚かせたのは、なんと当団団員で「港区童謡唱歌の会」代表でもある清水軍治さんが6年ぶりに連盟会長に返り咲いたことです。大相撲で言えば、貴ノ浪が東の正横綱に 酔 狂 推挙されたようなもので、会場からは賞賛とも、驚きともつかないどよめきが湧き起こりました。一方、会長の中野高治さんは退任して顧問に就任、今後も会長を助けていくこととなりました。

 念願かなって(かどうかは分かりませんが)6年ぶりに会長に就任した清水さんは「昨年春で会社も倒産整理したので、身軽になった。このままのんびりしたかったが、どうしても引き受けて欲しいとの要請もあったので、好きな海外旅行も控え、一日2品のおかずも1品に減らした上で、残された短い余生を連盟発展のために尽くしたい」と意気軒昂な就任挨拶(管理人の憶測)を述べました。

清水会長(新) 中野顧問(新) 藤井理事長(再) 長島副理事長(再)

▼ジョイントコンサートは6月27日(日)に

 高 齢 恒例となったジョイントコンサートは6月27日に港区芝・abc会館ホールで開催されます。抽選の結果、白門グリークラブは11番、12時40分頃の出演です。



●帰郷する松田君夫妻の送別会(2004年4月17日掲載)
 白門グリークラブ、そして若手OBで組織するChor’99で活躍した松田実君が生地の舞鶴へ帰ることとなりました。すでに舞鶴での新しい勤務先も決まり、5月下旬には正子夫人と東京を発ちます。1972年に卒業後は大手不動産、飲食業、会計士事務所を経て現在の不動産会社に。建売住宅の営業部長として長年の勤務は会社にも惜しまれています(本人の話ですから間違いないでしょう)。

 春宵値千金の4月17日夜に国立市内の中華レストランで同期生の丸亀、堤、宮本夫妻が松田夫妻を招いて8人で送別の宴となりました。午後6時から延々4時間余り、食い続け、飲み続け、語り続けました。学生時代の演奏会、合宿、若い頃の恋人(そのまま現在のカミサンになった人もいれば、そうでなかった人もいます)、旅行、仕事などなど。その間に料理10品、ビール中瓶6本(サントリー「横浜中華街」というブランド)、紹興酒5本、ウーロン茶6杯を消費しました。

松田君夫妻のご健康を祈ります。
(左写真:1970年11月に4人で旅行した佐渡島  右写真:送別会が終わり4人が同じ構図で立ってみました)






●白門グリークラブはまもなく還暦?(2004年4月7日掲載)
 1960年に創立された我が白門グリークラブ。創立時のメンバーのうち最高齢は相談役(前団長)の石井秀之さん73歳です。先ごろサイト管理人が面白半分に団員の平均年齢を算出したところ、なんと59才7ヶ月24日(4月6日現在)。しかもそれは4年前に広島に単身赴任してこの間は練習と演奏会に参加していない若手団員の吉富拓哉君を無理やりに突っ込んだせいでした。

 来年は2年4ヶ月ぶりに演奏会を開催しますが、よっぽどの事がない限り60歳を超えて都内でも有数の高齢者合唱団になることは間違いありません。還暦はお祝いをするものですが、高齢化に歯止めを掛けないと近い将来に破綻(笑)をするかもしれませんね。



3月

●章ちゃんから桜の便りが(2004年3月28日掲載)
 久しぶりの更新です。
 今日の昼前に章ちゃんから2年ぶりに桜の写真が届きましたので、いつものように写真と通信文をご本人には無断で(笑)、転載します。

 一体、いつまで観られるんだろう?と、“賞味期限が間もなくやってくるのでは?”と、弱気になる(時もある…)私ですので昨日樹齢400有余年の“伏姫櫻”との対面(笑)は、感慨深いものでした。
 写メール貼付します。章ちゃんでした。

 管理人より:ご自宅の近所にある、真間山弘法寺境内の「枝垂れ桜」です。






1月

●珍奇な看板を発見! あなたが〜いもの、ってナニ?(2004年1月14日掲載)
看板の全体像 肝心な部分の拡大像

 1月7日の夜。たまには歩いて帰ろうかと帰宅途中の商店街の一角で珍奇、不可解な看板を発見。いつも持ち歩いているデジカメにすかさず記録しました。

 韓国焼肉の店らしいのですが、いったい
、心をこめてご用意してくれる「あなたが〜いもの」とはどんな食べ物なのでしょうか。食事が済んでいなければ一緒にいた妻と入って確認したい気持ちになりました。

 この看板を発注した人が仮に韓国人で日本語表現に問題があっても、受注した看板屋は日本語の変なところに気が付くべきでしょうねえ・・・。妻の話では、だいぶ前からこの店はこの看板を出しているそうです。

 街中に溢れている看板の中には思わず頭をひねりたくなるものがたくさんあります。4年前には会社の近くの民間駐車場の入口で見かけた
「無断駐車ご遠慮申し上げますというものがあり、ここの経営者の謙虚な態度に敬服したものです(失笑)。

調べたらこんなサイトもあります。大笑いします。
http://www1.ocn.ne.jp/~tomapon/
http://www.yokohama-web.com/vow/



     2005年7月から12月の出来事
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