2004年 6月 ●中央大学グリークラブ創立秘話(2004年6月21日掲載) ▼1961年第6回定期演奏会プログラムより(改行位置を変えてあります) ●久々になつかしの写真を当時のプログラムから(2004年6月21日掲載)
●無言忌が今年も6月6日に開催(2004年6月7日掲載) 式典に参加した依田安弘さんの寄稿です。
この日の模様は県下最大の地方紙、信濃毎日でも報道されました。 ●今年初めての合宿は夢の島で10月23日から2日間(2004年6月4日掲載)
今年の3月31日にオープンしたばかりで、宿泊もできます。最寄り駅はJR京葉線・地下鉄有楽町線・りんかい線「新木場」駅下車、徒歩7分。 実施概要は次回練習日にて実行委員会から発表されます。施設の概要はここをどうぞ。 一人当たりの費用は6000円程度(ピアノつき練習室、5人用和洋室での宿泊。ただし食事は含まれません)を予定しているそうです。江畑さん、海外さん、ご苦労様でした。 5月 ●こぶしの会演奏会に賛助出演(2004年5月16日掲載) ▼依田団長ら37名が参加 中央大学グリークラブ常任指揮者を昭和26年から20年にわたって務めた青木八郎先生が指導する女声合唱団「こぶしの会」演奏会に賛助出演しました。入梅を思わせるような雨の中、信州佐久市から依田安弘団長、同中川村から米澤博文さん、茨城からは高山宏さんも汗をかきかき駆けつけ、久々のメンバーが揃いました。 午前9時15分からの発声練習に続き、10時からのステージリハーサルになりましたが、客席で待つ私たちの前では津田沼混声合唱団のリハーサル、先生から「声が小さい!」、「前に出るときによろよろ出てくるんじゃない!」、「そうじゃない、前の練習を忘れたのか、ばかもの」とあらん限りの叱声が飛んでいました。私たちはもちろん、ピアニストの大庭直子さんももまるで本番、いやそれ以上のピリピリした緊張状態で30分間の練習を終えました。終了後も「挽歌」終盤の出来に不安が残り、高木辰夫さんの提案で控え室でも臨時練習が行なわれました。 ▼満員の聴衆 このお天気で聴衆の来場が心配でしたが、さすが千葉県合唱界の天皇。1997年5月の青廊会演奏会以来年ぶりに訪れた会場の習志野文化ホール(定員1545人)はぎっしり満員。市川市から小山章三・いづみご夫妻、今日は参加できない丸亀英雄君、堤浄司君だけでなく、新潟市の本間譲二さん(昭和35年卒)夫妻らも、「ハッチャンが白門グリークラブを振るなら聞き逃せないよ」と姿を見せました。 ▼演奏はあっという間の20分間 当団はロシア民謡集の津田沼混声に続いて2番目の出場。「月光とピエロ」から「U 秋のピエロ」、「X 月光とピエロとピエレットの唐草模様」、インタビューを挟んで先生の作品「挽歌」でした。「挽歌」では2回ほどひやりとする場面もありましたが、まずまずの出来と言えるでしょう。 ステージインタビューで青木先生に「目の前にいる教え子で出来の良かったのは何人います?」と水を向けると団員たちを眺め回し、「ま、3人だな」(辛口です)。さらに「挽歌と言う作品について一言」と畳み掛けると「いや、駄作ですよ。(音楽の友社の)楽譜も売れなかったしね」と珍しい謙遜の言葉。中央大学グリー以外には大阪経済大学、明治大学の各グリークラブが過去に演奏しています。 ▼懇親会も大盛況 演奏会は16:15に終了。もっとも管理人は出番が終わって本屋に出かけて本を買い、その本を喫茶店で1時間以上読んでいたのでカルミナ・ブラーナの出来は聴き損ねました。 17:00から津田沼駅を挟んで反対側の船橋市東部公民館で、出演者、来賓など約200名が参加して懇親会が開かれました。八千代少年少女合唱団の澄んだ歌声は真似の出来るものではありませんが、心洗われる思いでした。最後は全員が肩を組み、「はるかな友に」を合唱して19:00散会。千葉県在住の団員はさらに近くで行なわれた二次会に流れたようです。 ▼この年には▼ 青木先生は1919年12月22日生まれ。この年にはこんな事件がありました。年表をどうぞ。 板垣退助が死去し、ベルサイユ条約が締結された年です。う〜ん、遠い歴史のかなたのそのまた向こうですね。 ▼付録▼「八郎さん」の息子さんは「一郎さん」、似ています! http://www.boowy.net/mylife-mytown/02.09.15/jinse.htm ●故・伊比さんの息子さんから一周忌を前にお便りが(2004年5月14日) 管理人用のメールアドレスに次のようなメールが届きました。(ご本人は公開を了解済み)
メールを下さったのは「白門写真博物館」に収蔵されたこの写真の左端にいる伊比厚士さん(トップテナー、昭和36年文学部卒)の息子さん、卓夫さんでした。インターネットの取り持つご縁で、40年以上も前に卒業された当時の中央大学グリークラブメンバーのご家族からご連絡があった訳です。そこで管理人は故・伊比さんと卒業期が同じか、前後する現白門グリークラブ団員にこれを転送して、伊比さんにまつわる思い出を投稿してくれるように依頼しました。そうしたところ、4人の団員から投稿がありましたのでここにご紹介します。
●こぶしの会を直前にした練習が青木ホールで(2004年5月12日掲載) 中央大学グリークラブの初代常任指揮者を務め、第一次黄金期には都内でも有数の大合唱団に育てた青木八郎先生を囲む「こぶしの会」が5月16日(日)に習志野文化ホールで開催されます。それを目前にした練習が、先生の自宅敷地内にある青木ホールで5月9日に開催され29名の団員が参加しました。80歳をとうに超えたはずなのにその指導振りは多くの団員が学生時代に知るハッチャン(先生の愛称)と全く変わらない、いやそれ以上の熱情溢れるものでした。 演奏会では「月光とピエロ」(堀口大學・詩、清水脩・作曲)から2曲、そしてハッチャンの代表作「挽歌」(矢内原伊作・詩 1968年中央大学グリークラブ定期演奏会で初演)が演奏されます。
▼練習現場より2人の団員(中村、坂田)からレポートが
発声練習のつもりではじめた「X月光とピエロとピエレットの唐草模様」であったが、いきなり「上げ弓!」、「体を揺すってくれ!」から始まり、4拍子の「強、弱、中強、弱」の歌い方等事細かな指示に団員も追従できず立ち往生する場面も。結局この1曲で1時間掛かってしまった。その後も「休止符も歌ってくれ!」、「テンポオンチ!」等さまざまな指示(?)が出され、息の抜けない練習であった。
それにしても先生は病も逃げ出す勢いの元気さで、練習の途中でシャツを着替えることも昔と変わらずの熱血指導であった。しかし、練習後は「こぶしの会」田中さんや菊池さんら団員の方々による軽食+ビールのおもてなしを受けたが、このときの先生はご自分でビールの準備をされるなどやさしい一面も。
(ベース・中村真一) 1.いい音楽を作りたい、と意欲に鬼気迫るものがあった。
2.アマチュア相手に楽しく音楽をやろうとの姿勢を強く感じた。
3.あれだけやられると、僕らが普段やっている練習は惰性でやっているに過ぎないのでは?との問題意識を感じた。
4.白門の今までの演奏は常に緊張感に欠けているのではないかと思った。せめて出だしは合わせる、ブレスは同時には常に気をつけねばと思いました。
(ベース・坂田信一) ●このサイトを生み出した伝説的作業場(2004年5月7日掲載)
どこだかの月刊誌、確か文藝春秋だったかな、「作家の書斎」なんていう連載グラビアがありました。出てくるのは川端康成、丹羽文雄、三島由紀夫、柴田練三郎など文豪ながら故人の書斎ばかり。圧倒されたのは松本清張の書斎でしたね。部屋というより図書館でした。 まだ私は存命ですが、これに倣って(んな訳ないか)作業場を公開します。新築当時の電源コンセントでは足らずに4つのテーブルタップを使っています。 右端の電話機とキーボードの間にある銀色の平べったいものは10インチのポータブル液晶テレビ(DVDプレーヤー付き)。デスクは昨夏に買ったもので奥行きと幅がかなり大きいものです。 ●着々と進む依田団長邸の庭園工事、そして初孫の端午の節句(2004年5月6日掲載) 長野県S市在住の依田安弘団長から近況を知らせる久しぶりのメールがありましたので、写真とともに掲載します(ご本人了解済み)。
4月6日に東京の定時練習から帰ってから4月28日まで、日曜を除いて毎日甥の工務店の施主兼助手として古い生垣をチェーンソーで切り倒しフェンスを作り、敷石を敷いたりコンクリートを練ったり、はたまたレンガを高崎まで買い付けに行き、これを門柱に積む作業を手伝ったり、生まれてこんなに肉体を酷使したのは初めてです。 息子が1ヶ月半イギリスに出張していて4月29日に帰国。そのまま私達のいる実家に直行すると言うので、いわき(福島県)まで息子の嫁さんと孫を連れに行って来て、ようやく工事も28日には一段落できた次第でなんとも慌しい1ヶ月でした。
しばらく見ないうちに孫も寝返りを打ち、間もなくハイハイをするかと思います。息子は自分の子の成長にびっくりすると同時に、一緒に風呂に入って泣かれて腐っていたようです。 ここS市では我が家から5分ほどの千曲川河川敷で5月1〜5日までバルーンの全国大会で賑わっていました。すっかり信州も良い季節になったので又是非出かけてください。
亀は高速が混むと行けないといって寄らずに帰っていきました。日曜日(5月9日)は八ちゃんの所の練習に参加するつもりです。 4月 ●港区音楽連盟総会が開催(2004年4月25日掲載)
また新規加盟団体として「エンゼルハート会」(代表・永井とし子さん)が紹介され、承認されました。この会は大正琴の演奏団体で、指導者の矢部三智美(やべ・みちみ)さんから当日持参した楽器も紹介されました。 ▼中野前会長は退任、清水さんが会長に復帰 今年は連盟も役員改選期。白門グリークラブに限らずどこでも高齢化は悩みの種のようで、都心の過疎化の象徴のような港区でも音楽連盟はその代表といえるかも知れません。 出席した管理人を驚かせたのは、なんと当団団員で「港区童謡唱歌の会」代表でもある清水軍治さんが6年ぶりに連盟会長に返り咲いたことです。大相撲で言えば、貴ノ浪が東の正横綱に 念願かなって(かどうかは分かりませんが)6年ぶりに会長に就任した清水さんは「昨年春で会社も
▼ジョイントコンサートは6月27日(日)に ●帰郷する松田君夫妻の送別会(2004年4月17日掲載) 白門グリークラブ、そして若手OBで組織するChor’99で活躍した松田実君が生地の舞鶴へ帰ることとなりました。すでに舞鶴での新しい勤務先も決まり、5月下旬には正子夫人と東京を発ちます。1972年に卒業後は大手不動産、飲食業、会計士事務所を経て現在の不動産会社に。建売住宅の営業部長として長年の勤務は会社にも惜しまれています(本人の話ですから間違いないでしょう)。 春宵値千金の4月17日夜に国立市内の中華レストランで同期生の丸亀、堤、宮本夫妻が松田夫妻を招いて8人で送別の宴となりました。午後6時から延々4時間余り、食い続け、飲み続け、語り続けました。学生時代の演奏会、合宿、若い頃の恋人(そのまま現在のカミサンになった人もいれば、そうでなかった人もいます)、旅行、仕事などなど。その間に料理10品、ビール中瓶6本(サントリー「横浜中華街」というブランド)、紹興酒5本、ウーロン茶6杯を消費しました。 松田君夫妻のご健康を祈ります。 (左写真:1970年11月に4人で旅行した佐渡島 右写真:送別会が終わり4人が同じ構図で立ってみました) ●白門グリークラブはまもなく還暦?(2004年4月7日掲載) 1960年に創立された我が白門グリークラブ。創立時のメンバーのうち最高齢は相談役(前団長)の石井秀之さん73歳です。先ごろサイト管理人が面白半分に団員の平均年齢を算出したところ、なんと59才7ヶ月24日(4月6日現在)。しかもそれは4年前に広島に単身赴任してこの間は練習と演奏会に参加していない若手団員の吉富拓哉君を無理やりに突っ込んだせいでした。 来年は2年4ヶ月ぶりに演奏会を開催しますが、よっぽどの事がない限り60歳を超えて都内でも有数の高齢者合唱団になることは間違いありません。還暦はお祝いをするものですが、高齢化に歯止めを掛けないと近い将来に破綻(笑)をするかもしれませんね。 3月 ●章ちゃんから桜の便りが(2004年3月28日掲載) 久しぶりの更新です。 今日の昼前に章ちゃんから2年ぶりに桜の写真が届きましたので、いつものように写真と通信文をご本人には無断で(笑)、転載します。 写メール貼付します。章ちゃんでした。 管理人より:ご自宅の近所にある、真間山弘法寺境内の「枝垂れ桜」です。 1月 ●珍奇な看板を発見! あなたが〜いもの、ってナニ?(2004年1月14日掲載)
1月7日の夜。たまには歩いて帰ろうかと帰宅途中の商店街の一角で珍奇、不可解な看板を発見。いつも持ち歩いているデジカメにすかさず記録しました。 韓国焼肉の店らしいのですが、いったい、心をこめてご用意してくれる「あなたが〜いもの」とはどんな食べ物なのでしょうか。食事が済んでいなければ一緒にいた妻と入って確認したい気持ちになりました。 この看板を発注した人が仮に韓国人で日本語表現に問題があっても、受注した看板屋は日本語の変なところに気が付くべきでしょうねえ・・・。妻の話では、だいぶ前からこの店はこの看板を出しているそうです。 街中に溢れている看板の中には思わず頭をひねりたくなるものがたくさんあります。4年前には会社の近くの民間駐車場の入口で見かけた「無断駐車ご遠慮申し上げます」というものがあり、ここの経営者の謙虚な態度に敬服したものです(失笑)。 調べたらこんなサイトもあります。大笑いします。 http://www1.ocn.ne.jp/~tomapon/ http://www.yokohama-web.com/vow/
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