2005年

12月

●2005年度総会・懇親会を開催(2006年1月6日掲載)

 
リスマスチャリティコンサートを終え、ホテル宴会場「弥生」で正午から年次総会を開催しました。いつもは2時間あまりの討議ですが、この日はコンサートと懇親会の間のわずか1時間。今年度決算、来年度予算案や来年度活動予定などを了承、さらに団員から提出された4つの議案を審議しましたが、次期演奏会予算案などは時間切れで1月以降の臨時総会に持ち越されました。

千葉団長(右)から感謝状を受ける森田さん  大庭さんにも感謝の記念品を
 総会終了後は「飛鳥」で恒例の懇親会を開催しました。大怪我が癒えて総会から顔を見せた高木繁雄さんや家族のほか、ゲストに青木八郎先生、指揮者の松本宰二先生らを迎えにぎやかに開催されました。千葉団長のあいさつ、石井相談役の乾杯の発声ののち開宴。

 昨年(2005年2月)までの45年間音楽監督、常任指揮者であった森田敏昭さんに千葉団長から名誉指揮者称号を贈る感謝状と記念品、10年間専属ピアニストを務めてくれている「愛娘」の大庭直子さんにも感謝の記念品が渡されました。

 千葉団長は「45年もの長い間には練習に2人しか来ていない日もあり、存続が危ぶまれたことも幾度もあった。しかし森田さんは常に辛抱強く私たちを指導してくれた。今の白門グリークラブがあるのも森田さんのおかげだ」とその功績を称えました。
 また依田前団長が大庭尚子さんを専属ピアニストに招いた時のいきさつを披露するなど、これまでの努力に感謝の言葉を述べました。

 昭和と平成の怪物、青木八郎先生
 3年ぶりにゲストとして来場した青木先生は前立腺がんで余命2年と宣告されて早や2年経過。「おい、本当なら今頃は”はっちゃんを偲ぶ会”をやっているはずだけどな」(昭和35年卒西山和夫さん)の声をよそに壇上に立ち、病気発見から築地の癌センターでの苦しい治療、ステージ復帰などをあの強烈なユーモアを交えて20分余りにわたって語ってくれました。その話の途中でも、「おい、石井、お前もがん適齢期だ。注意しろ!」と75歳の石井秀之さんに発破を掛け、その石井さんを苦笑させました。
 「2006年6月はまた君たちと歌えるのが楽しみだ。体大事にしろ!」と、まるで立場があべこべ。しかし一見豪放磊落なハッちゃんも、病気についてはきっとこれまで人知れず苦しんだに違いありません。その6月10日は調布合唱連盟発足30周年記念合唱祭。久々にハッちゃんの指揮で歌うことになります。

 懇親会半ばには女声ジャズボーカルグループのStarlight Junctionが登場。育ての親である東京バーバーズの栗本滋夫会長が目を細める中、ピアノ伴奏で4曲を歌ってくれました。

 中締めは副団長・次期演奏会実行委員長の塩田勝彦さん。「演奏会までにぜひ10人の新団員を獲得しよう」と檄を飛ばしました。

 15:35お開き。新年度の練習開始は1月10日です。



●東京バーバーズとクリスマスコンサート(2006年1月6日掲載)
 
 団のMさんがその司会を引き受けている東京バーバーズ(TB)と白門グリークラブの初のクリスマスコンサートが、クリスマスの12月25日にセンチュリーハイアット東京2階ロビーで開催されました。昨年の7月にTBの栗本滋夫会長らとMさんがホテルで会食したときにこの提案が生まれ、ホテル側に持ちかけたところとんとん拍子に実現したものです。

 ホテルは前夜がクリスマスイブで満室。演奏開始はゲストが一斉にチェックアウトする午前11時から。コンサートはホテルのWEB、顧客会員誌などで告知されたせいか、両団体のファンのほか埼玉、千葉から来てくださった方々およそ200名を前に始り、それぞれ5曲づつ演奏。TB、白門グリークラブは同じ男声合唱でありながら演奏スタイルが異なるため、45分間に渡っておおいに聴衆を楽しませました。最後はクリスマスツリーを挟んで両団体の合同演奏によるあの「O' Holy Night」(アダム作曲)で締めくくりました。

 直前の練習では、最後に全員で手を挙げて「メリークリスマス!」と叫ぼうと決めていたはずが、合同曲を指揮した藤澤さんがほっとしたのかこれをすっかり忘れてしまい、団員に「オイ!」と促されて慌てる一幕も。TBは38名、白門グリークラブは33名が参加しました。またこのコンサートではインドシナ難民支援のチャリティが行われ、13万円余りもの寄付金が集まり、計画通りの成功を収めたイベントでした。

 東京バーバーズはクワルテットも交えて  藤澤賢二さんが指揮する我が白門グリークラブ


●さよなら、くまもとやさん!(2005年12月26日掲載)

 
門グリークラブが渋谷で定時練習を始めて20年。ここを練習会場にした最大の理由は30名が入れる大スタジオがあったからですが、もう一つの理由が、地下に居酒屋の「くまもとや」があったからです。オーナーの松本隆さんは中央大学のOBでもあります。毎週火曜日、練習が終わると少ないときでも4人、多いときでは15名ほどがここに集いました。

 そのくまもとやがある三浦ピアノビルが2006年2月には取り壊しとなり、新しいビルになっても残念ながら大スタジオは設置されないことになりました。そのため白門グリークラブも間もなく港区芝公園に練習会場を移します。そして取り壊しに先立つ2005年12月29日に、愛する「くまもとや」も営業を閉じることになりました。

 20年もの間お世話になったくまもとやの松本さんご夫妻、そして従業員に感謝しようと、12月20日、この年最後の定時練習を早めに切り上げた25名の団員がくまもとやに終結。2時間余りにわたって松本さん夫妻を囲んで歌いました。松本隆さん、法子さんご夫妻の話では「どこか渋谷近辺に新しい場所を探して再開し、くまもとやの名も残したいと考えている。でも、もう自分たちは引退。若い人たちに後を託そうと思っています」とのこと。

 松本さんご夫妻、そして従業員の皆さん、20年間大変お世話になりました。どうぞいつまでもお元気で。


 オーナーの松本さん夫妻を囲んで感謝の合唱            2005年12月20日午後8時30分(撮影YM)


●Chor '99が初めての単独演奏会を開催(2005年12月4日掲載)

 1999年に誕生し、これまで実力を蓄えてきたOB演奏団体、Chor '99が初めての単独演奏会を12月3日に開催しました。会場は錦糸町・すみだトリフォニー小ホール(定員252名)。代表の丹野泰さんはじめ18名の団員は今井康人さん(昭和57年卒)の指揮で、1時間半にわたるステージを無事演奏し、成功裏に終了させました。
 会場には団員の家族のほか、これまで何回か合同ステージで支援してきた女声合唱団coro'97tokioの団員(椙山、跡見、聖徳、鎌倉各女子大のOG)、中大グリー現役学生、そして白門グリークラブ団員らOBなど2百数十名の聴衆が来場しました。
 
 終演後は錦糸町駅に近いレストランでレセプション、団員ら50名が参加2時間にわたり余韻を楽しみました。団員の一人で舞鶴から参加した松田実さん(昭和47年卒)は、乾杯の発声に立ち「通常の練習は参加できなかったが、MDに収録したみなの練習録音を聞きながら家で歌っていた。最後のステージの多田さんの柳河を歌ったら、ぐっと胸に迫るものがあってしばらく声が出なくなってしまったよ」と語りました。

 彼らの今後の発展を祈りましょう。二股掛けている白門グリークラブメンバー、こちらの練習も怠りなくね。



10月

●ヤングブラザースが結成3周年
(2005年10月31日記事掲載、11月2日写真掲載)

 2002年秋にベースの小川さんが指導する男声合唱団「ヤングブラザース」(社会人団体・鵠沼探求クラブ内の組織)が呱々の声を上げ、その一年後には初めての演奏会を開きました。その記事はここ

 それからまる2年。結成3周年を祝い、団員と家族が集う会が10月31日夜に小田急線・鵠沼海岸駅に程近い会場で開かれました。会場には団員約20名とよき理解者である奥様方、そして団員が絶大の信頼を寄せる指揮者、小川勝久さんのほか、なにかと音楽的助言を惜しまない藤澤賢二さん、初の演奏会時からひやひやしながら見守ってきた高木辰夫さん、熊木宏儔さん、HP作りを指導した宮本康幸さんら白門グリークラブ6名が招かれて懇親を深めました。

 11月6日に開かれる鵠沼公民館祭りに出演する予定の団員らが披露した5曲は、なんと「はるかな友に」など男声四部合唱を含むもので、中に混じって歌った私たちだけでなく、「あの夫が歌を?」と半信半疑、はらはらと見守っていた奥方連を驚かせるに十分なものでした。おまけに最後の「今日のひととき」(小山章三先生作詞・作曲)では白門バージョンであるナレーションを西野さんが巧みに織り込むなど、素晴らしい演出となりました。

 「正直なところ、2年前の初の演奏会を聴いたときは”こりゃ、指揮者も団員もいつまで持つかな・・・”と行く末を危ぶんだものです。譜面を読める人もいなかったし、まともにハーモニーを作ることも出来なかった人たちでしたからね。」と高木さんらは感慨ひとしおでした。
 「小川先生は絶対に怒らないんです。きっと怒りたい時もあったのでしょうが、丁寧に何度も同じことを繰り返して指導してくれました」(団員の磯川さんの話)
 「よくここまでになったものです。きっと歌が好きでたまらないのでしょうね。小川さんの努力にも敬服です」と白門の宮本さん。「西野さんが ”今日のひととき” で例のナレーションをした時には、”ヤラレタ!”と思いましたよ。あれは私しか出来ない、と思っていましたから」とお株を取られた格好でした。

 これからの成長が楽しみです。お招きをいただき、ありがとうございました。楽しい一夜でした。

 小川さんと手塩にかけたヤングブラザースの演奏  招かれた高木さんら白門グリークラブ有志が模範演奏
(写真提供:ヤングブラザース・鈴木英紀さん)


●中国国際放送局(北京放送)の公式日本語サイト
(2005年10月26日掲載)
 9月18日にここで掲載した北京放送訪日団懇親会の記事が、同放送サイトに写真とともに掲載されています
 
http://jp.chinabroadcast.cn/205/2005/09/18/1@48946.htm


●中央大学ホームカミングデイに出演
(2005年10月23日掲載、27日に写真掲載)
 

 晴の10月23日、第16回中央大学ホームカミングデイが八王子校舎で多数のOB、家族が参加して開催されました。2年前に続いて2回目の出演となる白門グリークラブは27名の団員、ピアニストの大庭直子さん(写真円内)が参加しました。午後2時20分からイベント会場のヒルトップの特設会場で演奏、校歌、、応援歌など9曲を演奏し、満場の聴衆を楽しませました。
 2年前に出演したときには聴衆の一人である老OBが突然立ち上がり、MCをさえぎって勝手に惜別の歌の解説を始める(とんでもない内容でしたが)という珍事が起きましたが、今回も2回にわたってOB2人ががステージに歩み寄り、演奏に注文をつけるという出来事がありました。
(写真提供:田中之雄氏)


●次期演奏会実行委員会第一回会議を開催(2005年10月23日掲載)


 
田勝彦さん(セカンドテナー、昭和44年卒)を委員長とした実行委員会が10月22日(土)夕刻から、西新宿の某ホテルで開催されました。
 初めての会議とあって、引継ぎをかねて千葉紘弥前委員長と江畑忠夫前実行委員が参加、開催時期、予算規模、ステージ構成と選曲、役割分担などを討議しました。この後は各担当者レベルで準備を進めますが、演奏会の全体概要は12月の年次総会で委員長から発表される予定です。

 90分の会議終了後の委員たち11名は同ホテル内2階のレストランで会食(左写真)。さらにノミスケ7人は新宿駅前の居酒屋に移動してさらに特別委員会を楽しんだようです。




 なお各役割が以下の通りに決まりました。
 委員長・総括  塩田勝彦
 副委員長・渉外  宮本康幸
 構成・演出  高木辰夫  藤澤賢二  高山宏  宮本康幸(兼務)
 選曲・練習計画  高木辰夫(兼務)  藤澤賢二(兼務)  中村真一  坂田信一
 広報宣伝・プログラム制作  坂田信一(兼務)  堤浄司  辰巳則夫  桜井正夫
 会計(予決算、資金管理)  大蔵純  辰巳則夫(兼務)  
 記録、ステマネ、レセプション  来年度に決定



これが信州渋温泉の旅!(2005年10月23日掲載) 写真は順次掲載中。

 ねてより旅行積立・兼・葬祭互助積立をしていた団員有志13名が錦秋の信州に出かけました。本誌特派取材のために自腹を切って参加した海外義次記者の記事は既報の通りですが、あまりに文趣に欠ける記事であり、「小学生の作文にも劣る」(E氏)、「あれなら、ないほうがマシ」(F氏)、「”鉾をおさめて”のソロを自分が歌ったことを強調したのみ」(N氏)と参加者からもさんざんな悪評続出。このままではこの公式サイトの権威も失墜する恐れがあり、やむなく編集人が彼らが先日の定時練習後に追加取材をおこないました。取材に応じてくれたのは、石井、矢澤、藤澤、江畑、千葉と海外の六氏。

▼信州の名湯へ
 10月15日午前に4台の車に分乗して都内を出発した参加者は当然、男ばかり。最年長は74歳の石井秀之、最年少でも55歳の辰巳則夫。途中で事故があったら、新聞の見出しは「老人団体、崖下に転落」、「救出を求めるうめき声、”おれだけでも助かりたい”」、「久しぶりの運転、無理な行程を組んだか」・・・。

 中山晋平記念館前で (写真提供:矢澤由行)
 ただの温泉宴会旅行ではいかん、白門グリーらしい足跡を残そうではないか、と殊勝な考えがあったのか、ただの時間調整なのか、往路の一行はまず信州中野の中山晋平記念館へ。晋平はここが生地(当時、長野県下高井郡新野村)。たまたま案内役を務めてくれた女性学芸員の塚田さんが武蔵野音大出身者であることを知り、頼み込んで彼女の伴奏で中山晋平作曲の「鉾をおさめて」を歌いました。海外さんが大作曲家の前でソロを務めたようです。別れ際に「今夜は渋温泉に泊まります。ぜひいらっしゃい」と塚田さんに声を掛けたものの、案の定現れず。

 見学を終えて館外に出ると、元は農家だったらしい建物がちょっとした休憩所になっています。ここで快晴で汗をかいた数名が冷蔵ケースに缶ビールがあるのを発見。店番が年端も行かない小学生の男の子であるのをいいことに勝手に取り出して飲み始めました。少年がご注進したらしく、奥から祖母らしい老婆が慌てて飛んできて厳しい代価の取立てになり、誰かが「おいおい、晋平ないよ」と駄洒落を飛ばす一幕も。お焼きや飲み物を次々に買ううちに老婆の表情も柔和になりました。


さて事故もなく13名は騒音を撒き散らしながら信州の名湯、渋温泉の渋ホテル
(左写真)に到着しました。シブガッショウなので、ここにしたようです。玄関脇の歓迎札には「有限会社白門グリー会様」。この通りの名で予約した、と藤澤氏。会長が石井秀之、社長が西山和夫、専務が矢澤由行の各氏という設定で臨んだとか。有限会社の割には役員が多いですね。つまり年功序列人事で、実力とは無縁のようであります。それにしても旅館の予約係は、よくこの団体名に不審を抱かなかったものです。

▼外湯めぐり
 渋温泉は外湯が売り物。家ではカラスも驚く早上がりの面々も浴衣に着替えるのももどかしく、その度に脱ぐのは面倒、とパンツ一枚で出かけようとする江畑氏まで。さすがに従業員に止められ、9人が下駄をつっかけてイソイソと旅館を後にしました。9箇所ある外湯で最初に向かったのは九番湯(渋大湯)。その理由になった湯の効能がリュウマチ、神経痛(他に「子宝」)。この後はそれぞれ好きな湯に向かうこととしました。

 石井氏が向かったのは隣の八番湯(神明滝の湯)。出てきて言うには「男はひとりもいなかったな」。何を勘違いしたのか、ここの効能は「婦人病(のみ)」。よく見て入らなかったせいです。
 一方、四番湯を楽しんだ江畑氏が下駄を履こうとすると、どういうわけか残っているのは女物の駒下駄一足だけ。やむなくこれを履いて五番湯に。身長も伸びると信じたようで浴槽で体を伸ばしていると、入り口付近で聞きなれた声がする。脱ぎ捨てた女物の下駄を見つけたメンバー達がヒソヒソと「おい、女が一人いるようだぜ」、「かまわん、どうせ婆さんだろう」と勝手な推測。出るに出られぬ江畑氏、入ってきた彼らに「スマン、俺なんだ」と、湯船からいらぬ釈明。

 矢澤、中嶋、海外氏ら数名は連れ立って六番湯。そろいも揃って強度の近眼、老眼の面々が目にしたのは湯の効能である眼病治癒。この六番湯の別名が「目洗いの湯」。温泉については一家言をもつ矢澤氏の「こうすればよく効く、と聞いた」との根拠不明な助言を真に受けたのか、裸で床に這いながら頭だけを湯に入れた彼らを見て、後から来た入浴客がギョッと立ちすくんだとか。溺死者は幸い出ませんでした。

 「目は諦めたが、アゴを短くしたい」と願う生まれつき長顔の辰巳氏は、ここがいいだろう、と言われて七番湯。効能は外傷性諸障害とあるので、「ま、当たらずとも遠からずか・・・」と納得して入浴。出てきた感想を聞くと、顔をさすりながら、「う〜ん、少し短くなったように思います」。旅館に着くまでには元の長さに戻っていたので、効き目は短いようです。ウルトラマンの3分間だけの変身みたいなものでしょうか。

 もしお食事前でしたら、下の写真はクリックしないことを推奨します。
 外湯へ向かう面  どっぷりと湯船に浸かる  絶対クリックしないで下さい  本当にクリックしないで下さい

▼居残り組は
 数時間の対戦が続く。左から西山、米澤、小川。

 ところで外湯に出かけなかったのは4人。外湯の混雑を嫌ったのか、蒙古斑がまだ尻にあることを気にしているのか、内生蔵綱雄、熊木宏儔の両氏は旅館の大浴場をすっかり占領した模様です。
 60年余りを超えてすっかり緩みきったお互いの体をタメ息混じりに眺めつつ、「なにも外に行かなくったて、ここで十分じゃないか」と、強がりとも負け惜しみ思える妙な満足。

 一方、産湯以来60年以上にもわたって入浴の経験を知らない西山和夫、小川勝久両氏は風呂にも行かずに、部屋で早速囲碁を始める始末です。最近日本囲碁連盟認定五段の認定を受けた小川氏がB級リーグ常連の西山さんをハナから相手にしない貫録勝ちでした。外湯から帰ってきた頃もご覧のように対戦が続いていました。



▼地元の芸妓三人
 いずれが菖蒲か杜若・・・、娟を競う老妓たち。
 温泉芸者評論家を称する藤澤氏が出発前に旅館に芸妓を予約しました。コンパニオンはどうせ学生バイト、呼ぶなら味わい深い年増がいいじゃないか、と常々言っていたせいでしょうか。40歳代の芸妓を3人呼んでくれ、と伝えたところ旅館の返事は「あいにくその年代の子はいないが、それに近いのでよかったら手配します」。
 藤澤氏、これを30歳代の芸妓が来ると勝手に思っていたところ、宴席に現れたのは日本髪姿を含む三人の老妓たちでした。年齢を聞くと頭目格とおぼしき一人が艶然と微笑みながら、「戦後生まれもおります」と言う。まさか、戦後とは日露戦争ではあるまいかと確認すれば、最年少ですら昭和21年生まれと判明。つまり来年60歳。カンレキです。よって他の二人は推して知るべし。妓名は、ほたる、こいと、とみこ、と信州ゆかりの名ばかり(どこが)。
 海外氏からは「ねえ、藤澤さん、花代をケチったんはないでしょうね。出発前のあの話と違いますよね」とあらぬ疑いをかけられるハメとなりました。

▼開宴
 有限会社白門グリーの首陣3人
 艶談に沸く米澤、熊木、中嶋、辰巳氏
 芸者ワルツは ”重いで〜ワルツ” か
 かくて有限会社白門グリークラブ創業45周年記念の宴会が海外総務部次長による司会で開幕。序列を重んじた人事のおかげで現在の地位を得た某部長の指示で、上座には石井会長、西山社長、矢澤専務の3人が着席。創業者である石井会長は長い挨拶をするつもり、それに西山社長は回顧談とも愚痴(日中のソロを海外に取られた・・・)ともつかぬ乾杯の音頭をそれぞれ準備していたものの、割愛していきなり開宴となりました。

 宴席に座ったのは他に、小川営業第一部長、内生蔵営業第二部長、千葉常勤監査役(前総務部長)、藤澤医療機器事業部長、江畑資材調達部長、飯田営業推進室長(部長待遇)、熊木物流システム部長、中嶋コンプライアンス推進部次長、辰巳労務課長心得、それに単身赴任ながら勇躍参加した米澤甲信越支社長(常務待遇)。当初は役員秘書の大庭直子も社命で参加の予定でしたが、宮本経理部長(欠席)の「今回はやめた方がいいぜ」の忠告で自宅待機となりました。

▼芸妓たちを驚愕させる合唱
 どうも老妓たちは東京の中小企業のオジサン団体と判断したようで、三味線をやるというはずの頭目格はカセットテープを伴奏に形ばかりの踊りという手抜き芸を披露。これでは困ると、出たのは白門十八番の「いざ起ていくさびと」の大音響。これで手抜き芸者を驚かせました。芸者だけでなく隣の宴会場にいた男女グループが聞きに来て、聞きほれるほど。彼らは秩父から来ていたのですが、なんと我らが指揮者松本宰二氏をよく知っているとのこと。偶然、奇縁です。
 シモネタ漫談、カラオケ、中大節と踊り、一気飲み、徒手体操、「こんな会社、いつだってヤメテヤル!」と叫ぶ生え抜き社員(江畑)が出るなど、宴が進むうちに連れて披露される思いもかけない妙技の連続に、普段は宴会慣れした3人の老妓たちもさらに感動。「こんな面白い方たちは初めて。もっと一緒にいたいから延長させて。でも延長料金はいらないわよ」とのけなげな申し出が幹事を務めた海外氏にありました。

 くまもとやで取材の編集人にこう語る藤澤氏。「あとから知ったんだが、海外が臨時役員会にも諮らずこれを断ったんだ。時間通りに始めて時間通りに終わる、っていう四角い人生を歩んできたアイツらしいが、野暮だよな」とぼやく始末です。芸妓はカセットテレコを手に名残惜しそうに座敷を後にしていきました。やむなく一行はその後、ホテル内のスナックへ。そこで歌声を披露したところ、投宿中の諏訪市内の親睦団体「らうす会」の方々と意気投合。夜も更けるのを忘れて楽しんだようです。

▼一夜明けて
 翌朝に芸者事件を知った西山社長から「気の利かないヤツだ」と叱られて、海外氏はその10月16日付で同社総務部付調査役(実質的に平社員)に降格という重い処分となりました。

 旅館に近い「わかばや」へ
 朝食を済ませると宿の支配人から、「この先にある土産店のご主人は、確か中央大の卒業生のはず。同門ですから、そこでお土産を買ってみたらいかがでしょう」と聞いたので、一行は宿から数軒離れた若葉屋商店へ向かいました。ご主人に話を聞けば確かに昭和36年生まれの中大文学部OBである山本明孝さん。お母さんとお姉さんも店先に出てきてくれたので、頼まれもしないのに中央大学校歌と「はるかな友に」を歌いました。朝陽と朝靄の温泉街に流れる合唱・・・。

 「こんなに大勢の先輩たちが来てくれるとは。しかも校歌を歌うのは20年ぶりです。懐かしくて学生時代を思い出しました」と山本さんは感激の面持ち。石井さんはこのお店に前もって予約しておいた12折の温泉饅頭を買い求め、それを一折づつ皆に分ける男気を見せました。後輩である山本さん一家への励ましでもあったに違いありません。

▼佐久の依田邸を訪問
 一行は、2年余り前に東京から長野に移った依田前団長を訪問するために車を飛ばして佐久へ。途中紅葉の美しい志賀高原、白根山を散策したのち、図々しくも依田邸で昼をご馳走になるつもりでした。

 「多分、昼飯は蕎麦だろう。依田は前から自宅で蕎麦を打っていると聞いているから」と西山氏。
 「ぼく、ソバ大好きなんです」とうきうきする海外氏。
 「依田君は蕎麦道を究めたらしいぞ」とは石井氏。
 あげく、「今朝電話を入れたら、あまり早く来るな、と依田さんが言っていたそうだ。きっと今頃は茹でているに違いない」と藤澤氏が言うに及んで、いつの間にか勝手に「依田邸では、そばの昼食」という構図が出来上がってしまったのです。

 そこでご馳走になるばかりでは申し訳ないだろう、と義理をことのほか重んじる全員の総意で佐久市内の大型スーパーに立ち寄り、蕎麦に添える小海老のかき揚げや生卵、高級海苔を買い求めました。この時点で一行の頭には「依田さんが夜を徹して打った蕎麦が並ぶ客間」、「信州スナワチ蕎麦」というステロタイプで身勝手な連想が固定したのであります。

 午後1時少し前に到着。「よく来てくれました」と依田さんと好子夫人に出迎えられて、芝が美しい庭に面した客間に通された一行。一昨年に改築した依田邸を初めて訪れたメンバーが大半。好子夫人が作ってくれた肉じゃがやウィンナなどの惣菜、季節の栗ご飯など美味しいものを賞味しながら賑やかに歓談をしました。やがて庭から抜いたばかりの葱を入れた味噌汁。

 あれ? 蕎麦は? の疑念が全員の頭に浮かんできました。
 ついに石井氏が堪りかねて、(しかし、さりげなく)
 「コホン、ところで依田君、蕎麦づくりの腕は上がったかね?」と思わせぶりな質問をしたのです。しん、と時が止まり、静まり返る一同の期待を背に受けながら・・・。
 それとは知らない依田さんは顔の前で手を振って、
 「いやいや、あれは奥深いもので、なかなか上達しませんねえ。しばらくやっていません」

 この一言で一同は、ついに悲しい真実を知るところとなりました。




蕎麦ハ、出ナイノダ (涙)





 「で、買ってきたかき揚げや生卵はどうしたんですか?」と編集人は尋ねました。
 「まさか、これはつまらないものですが、とスーパーの冷めた天ぷらと生卵をあそこで出すわけにも行かなくてさ。そんな手土産なんて、ないもんな」と江畑氏が思い出し笑いを懸命にこらえながら言いました。
 「結局、それは後ろに隠して海苔だけ渡したんだ。依田さん、さすがに変に思ったろうな」
 「渡せなかった天ぷらはどうしたんです?」と編集人。
 「俺と海外が2つに分けてそのまま持ち帰った」と藤澤氏。
 「夕食に使ったんだけど、事情を知らないカミサンが”あなた、長野の土産が海老のかき揚げですか。しかもスーパーの・・・”といぶかられてね」

 そばつゆを買っていかなくてよかったですな。天ぷらと違って、あれは単体では使えませんぞ。勝手にひとの家での食事を蕎麦、と決めたあなたたちがワルイ!!。依田さん、好子夫人、どうかお笑い下さい。ところで生卵はどうしたんでしょう?
(上の集合写真のみ依田安弘さん提供)

▼写真提供

 全員の集合写真が何枚もありますが、13人が出かけたのにどう数えても12名しかいないのにお気づきでしょうか。実はここに掲載した写真はすべてデジカメを持った矢澤由行さん(昭和35年卒、セカンドテナー)の撮影によるものです。

 この旅行の本質を余すところなく捉え、その是非を問うために世に公表することを快く協力をして下さった矢澤さん(左の写真:渋温泉にて)を最後にご紹介します。最大の敬意を込めて。


2005年10月16日掲載「有志が信州渋温泉に旅するについて(2005年10月19日掲載)

 既報の標記記事を読んだ団員から、「海外記者の記事は旅行の全容を伝えていない」との申告があり、真実とクオリティを重んじる当サイトの編集人は都内で海外氏を含む関係者に直接取材をしました。その結果、旅行の2日間には有志とは言え、団の権威を疑わしめるに十分な所業があったことを突き止めました。

 しかしながらこれを故意に隠すことは望ましくなく、急遽設置された「白門グリークラブ・コンプライアンス推進協議会」(千葉紘弥委員長)に諮ったところ、早急に小委員会を設置し、誇張や推測を避けた客観的事実のみに基づいた記事をあらためて作成、掲載して世間様の判断を仰ごうという事になりました。

 外部の識者を招く予算がないので、このサイト管理人(編集人)がまとめた調査報告書を同協議会の江畑事務局長に提出して精査を受け、掲載の許可発出を待っております。掲載まで楽しみにお待ち下さい。
 (管理人謹白)

 なお、編集人が作成した調査報告書(約5000字)は以下のコンテンツからなっています。
 1.調査の発端
 2.信州の名湯へ −−中山晋平記念館
 3.外湯めぐり
 4.居残り組は
 5.地元の芸妓3人
 6.開宴
 7.芸妓の申し出
 8.一夜明けて
 9.佐久の依田邸を訪問



●有志が信州渋温泉に旅する(2005年10月16日掲載)

 10月15日(土)白門グリー有志 親睦信州旅行13名(藤沢 中島 海外(3名)、西山 矢沢 米沢(3名) 江畑 熊木 千葉 内生蔵(4名)小川 辰巳 石井(3名)で中山晋平記念館ホールでピアノ伴奏(ホール学芸員 塚田さん:武蔵野音大卒)のもと、中山晋平作曲の「鉾をおさめて」等を歌ってきました。

 湯田中渋温泉 渋ホテルに宿泊(13名)、翌10月16日(日)志賀高原、白根山(散策) 万座経由で依田さん宅に13名で立ち寄り食事しながら歓談。天候も快晴で恵まれ、ドライブには最適でした。道路も渋滞なく千葉には6時頃到着。(同行取材:海外義次)

中山晋平記念館 http://www.city.nakano.nagano.jp/shinpei/


●第4回目の合同練習、厳しさを増す(2005年10月10日掲載)

 の3連休の中日、10月9日(日)の午後6時から目黒区立大橋図書館の音楽室で現役学生、OBの合同練習が開催され約50名が参加しました。この一週間は悪天候、この日も小雨がちらつく天気となりました。
 2人の指揮者のうち、白門の藤澤さんは郷里の北見へ結婚式参列のために帰省中。このため3時間の練習は難曲である「路標の歌」一本に絞り、コール'99の今井君の指導も一際厳しさを増しました。

 今井君の叱声が飛ぶ「路標・・・」の練習  長野から参加した依田さん(中央)も懸命

 今井君の熱意に応える団員の練習振りにもさすがにこれまでとは違いが見られます。「もう一度」、「さあ、もう一度」というダメ出しの度にいつしか笑いと無駄話が影をひそめ、学生時代の強化合宿を思わせる練習となりました。
 「今日の3時間の練習で、なんとか古橋先生にお渡しできるまでにはなりました。」と汗びっしょりで練習を終えた後の今井君の感想です。すでに団員には各パートの音を録音したCDが配布されており、次の練習までの1ヶ月近くは個人のモチベーション維持と自宅練習が鍵となりそうです。

 練習後に管理人が丸亀君と池尻大橋駅まで歩く途中、コールのメンバーたちから「飲っていきましょうよ」と声がかかり、7人で居酒屋「そてつ」へ入り2時間余りの懇親会となりました。
 左から宮本、今井、秋元の各氏  左から清水、西川、丸亀、高崎の各氏

 初めて入った店はメニューなどから推測して、どうも沖縄県出身者が経営している様子。我々の後から入ってくるお客さんたちも沖縄地方特有の濃い顔立ちばかり。世代の差こそありますが、話題は音楽、未婚の後輩の動向、差別用語と教科書表現など多岐にわたり、焼酎ももあっというまに2本を空けるまでとなりました。

 
次の練習は11月5日、代々木での開催です。


9月


●第4回目の合同練習に現役も参加
(2005年9月19日掲載)

 
大グリークラブ第50回定期演奏会まであと3ヶ月と迫った9月18日、調布市文化会館で現役学生も加わった第3回目のOB合同練習が開催されました。現役学生15名、白門、コール99らOB45名の合計60名という大所帯の練習となりました。
 次回は10月9日(日)、世田谷区の大橋図書館での開催です。
 いつもながらエネルギッシュな今井君と団員たち  「柳河」、「水のいのち」は藤澤さんの指揮

 この日は3連休の中日とあって練習終了後に白門の悪童(悪老か)たちがまた近くで飲んだようです。管理人が密かに放った間者から今朝次のような話がもたらされました。

〜昨夜は練習後、矢澤、西山、藤澤、飯田、海外、中嶋、辰巳の諸氏と飲みに行きました。(中略)小生帰宅しても誰も居ないのをいいことに二軒も付き合ってしまい、武蔵野線経由で帰ったのですが、秋津で上りの終電に乗り遅れ、3500円払ってタクシー帰宅となりました。因みに昨夜の飲み代は1軒目が一人1700円、二軒目は満員で入り口の外に特別席を作ってもらい何と500円でした。〜

※練馬に住むS氏からのメールでした。氏にはまもなく2番目のお孫さんが誕生予定です。初めてのお孫さん(男児)は氏の携帯電話の待ち受け画面になっています。ただの爺々バカであります。


●日本大衆音楽祭で中大グリーのOB、斎藤さんが歌唱賞(2005年9月19日掲載)

 形市に住む中央大学グリーOB(昭和37年卒)の斎藤俊幸さんが8月21日に開催された第21回日本大衆音楽祭(日本大衆音楽祭実行委員会主催、文化庁・厚生労働省などが後援)に山形県代表として出演し、見事に歌唱賞を受賞しました。(左写真)

 昭和58年に第一回が開催されてから「歌の国体」として年々参加者が増加するこの音楽祭本選は、例年通りに新宿区の厚生年金会館大ホールで開催されました。チャイルド、民謡、一般、シニアなど7部門に分かれて競います。テープによる一次審査、各都道府県単位の二次予選、それを勝ち抜いた各県の代表者が全国大会に進むわけです。

 斎藤さんが出場したのはなんと260人のエントリーがあったシニア部門(65歳以上)。「イヨマンテの夜」という声量と高音の響きが要求される難曲を歌い、激戦を勝ち抜いて歌唱賞を受賞しました。もちろん斎藤さんの実力が認められたわけですが、「この日駆けつけたグリーの友人の応援という後押しがあったことも、山形で初めてのシニア部門入賞につながりました」(斎藤さんの話)ということも見逃せません。 その応援に来場したのは石井秀之、西山和夫、小川勝久、米澤博文、野中忍、内生蔵綱雄、千葉紘弥、江畑忠夫、藤澤賢二、中嶋敦夫妻、海外義次らの各氏。

 「3年半前に大会参加を始めて、本選である全国大会に進むのが夢でした。予想以上の成績を収めましたが、これも大学時代にグリークラブにいたおかげです。グリーの友人たちの応援に感謝しています」と斎藤さんは語っています。このことが9月13日付の山形新聞にも掲載され一躍有名人になったせいで、その直後は市内で会う人ごとに受賞を話題にされたそうです。

 受賞を祝ってか、あるいは斎藤さんという遠来の友人の歓迎会か、はたまた3人以上集まると誰とはなしに飲み屋さんに足が向く永年の性癖のせいか、大会終了後には10人あまりが千葉さんのご贔屓の店「ライラック」(赤羽駅から5分)に繰り出し、深夜までのカラオケ大会となりました。
(写真は斎藤さんと歌うグリーの友人たち)

 「あの晩の貸切宴会も昔の合唱曲を歌ったが、生涯忘れえぬ思い出になりました。同じ釜の飯を食った仲間たちの絆は永遠に不滅ですね」

 斎藤さん、、受賞おめでとうございました!
 これからもお元気でご活躍下さい。

(左写真は受賞を伝える2005年9月13日付山形新聞)






●港区ファミリーコンサートに出演
(2005年9月19日掲載)
 
9月17日午後に高輪区民センターホールで行われた同センター主催のコンサートに24名の団員が出演しました。前半の4曲が童謡、後半の4曲が日本歌曲集でしたが、聴衆はほぼ満員の300名余り。お年寄りや小さなお子さんを連れたご夫婦の姿も多く来場、楽しんでもらいました。
▼西山さんが珍しいミス
 
後半の2曲目は西山さんのソロが入る十八番の「出船」。一番をゆうゆうといつもの通りに歌いましたが、コーラスが間奏で入ったあとの再度のソロではどうしたことか、先ほどの歌詞を繰り返して歌ってしまいました。
 「いつもは譜面を見ないで歌うんだが、この日は持って前に出たんだ。ふと2回目のソロで譜面に目を落としたら1番の歌詞が目に入ったんだな。うっかりそれを歌い始めて、あ、しまったと思ったんだが、今更戻すわけにも行かないし・・・。」と反省の弁。

(左写真 反省しきりの西山さん)


●北京放送訪日代表団が懇親会開催
(2005年9月18日掲載)
 趙鉄騎団長
 張国清日本支局長

 
京放送(中国国際広播電台)副局長・趙鉄騎氏を団長とする訪日団がリスナー、交流団体を招待した懇親会が日中友好会館(飯田橋)内のレストラン「中国茶芸館」で9月17日夕刻から開催されました。当団からは石井秀之夫妻のほか、依田安弘前団長、藤沢賢二、千葉紘弥(団長)、宮本康幸の各氏が出席しました。

 初めての来日となる趙局長(写真・上)は「これまで日本語部との関わりがなかったので、日本語で皆さんに挨拶が出来ないのが残念だ。だが今ここにいると、まるで自宅にいるかのごとくの安堵感がある。」と挨拶しました。リスナー代表、日中交流クラブなど来賓が次々と挨拶。当団の石井さんも初めての訪中演奏旅行(1985)の思い出を交えて、「段々と知っている人も退役して残念だが、これからも長い交流を続けたい」と述べました。

 初めて夫人の于恵芳(北京大学卒業の才媛)さんを伴って出席した張支局長(写真左)は約40名のゲストを一人ひとりを自ら紹介して各テーブルを回り、接待に一所懸命でした(写真下)。やはり本国から上司が来ると、いいところを見せようと汗をかくのは日本人サラリーマンだけではないようです。

 張支局長の依頼で当団の5人が「いざ起ていくさびと」、「オーラ・リー」を演奏、さらに2001年の訪中の際に初演した「大海、阿故郷」を久々に歌いはじめたところ、突然趙団長が立ち上がり、我々と肩を組んで歌い始めました。声量豊かな素晴らしいバリトンです。すぐに代表団、王さん、劉さんら支局のスタッフ、リスナーたちも歌声に加わり、思いがけない大合唱となりました。聞けば団長は北京放送局内の合唱団員の一人とか。道理で・・・

(下写真:ゲストを紹介する張支局長)
 にぎやかな懇親会も午後8時過ぎに終了。局長ら代表団と別れを惜しんだ当団のメンバーは長野に帰る依田さんと別れ、翌日もOB合同練習がありながら、千葉さんのご贔屓の店のある赤羽まで直行。

 函館生まれで「ライラック」店主である個性的なママは今年2月の第14回演奏会で250枚もチケットを引き受けてくれた大恩人であります。昭和30年代の歌謡曲ばかり歌って、それぞれ帰宅の途についたのは午後11時10分となりました。


●小諸で「惜別の歌」作曲60周年記念のイベント
(2005年9月11日掲載)
 団長の依田安弘さん(長野県在住)から今夜こんなメールを受信しました。著作権専門家の依田さんには断りもなしに転載します。(依田さん、ゴメン)。※編集のため、改行位置や句読点を変更してあります。

 9月8日、一通の速達(住所は昔の村名、番地は出鱈目)が小生当て飛び込んできた。
 差出人の名前は心当たりなく、差出人の近所に住む高校時代の同級生に問い合わせたところ、地元で印刷会社を経営する地元白門会の幹部と判明。どうやら先月会合があった際、オブザーバーで出席した元郵政大臣井出正一君から「依田が生家に戻っているよ。グリークラブの団長だよ・・」と告げられたとか。
 ”実は9月10日、初秋の信濃路「惜別の歌」を訪ねての旅(作曲60年を記念して)の集いがありますのでよろしければ後輩達に顔見せに是非お出かけ下さい”という内容。


 歌碑の前の応援団学生たち
 惜別の歌を歌うダ・カーポとそれを見つめる藤江氏
 一行は10日午前9時30分新宿西口から大学旗を付けたバスで出発、午後1時から小諸市懐古園にある歌碑前でイベントを開催した。大学応援団、ブラス(応援団ブラス)、チアリーディング、芹沢勤氏(小諸市長)、三宅邦彦氏(大学常務理事)、作曲者の藤江英輔氏、地元歌碑設立委員会などから挨拶。フォークデュオ、ダ・カーポによる「惜別の歌」演奏、と盛沢山。MCはNHKの葛西聖司アナ(中央大学放送研究会OB)。オマケに小諸で合宿中の箱根を走る選手、女子陸上部の選手も参加。

 てっきり地元小諸市、或いは地元白門会の主催かと思っていたところ、仕掛けたのは中大スポーツ振興会の斎藤博氏と聞き、石井元団長なら御存知と思いTELしたところ、先輩も御存知ない方とか。三宅先生にも伺ってもあまり良く御存知ではない。いづれにしても藤江先生はご満悦。ご家族も出席されていました。地元マスコミも結構取り上げておりました。

 夜は6時からホテルでほぼ昼間と同じセレモニーで中大生も交えての宴会。これにも付き合いましたが藤江先生、葛西アナ、白門会の役員、小諸の方々と親しく話しができて小生にとっては思いがけない時間でした。
 
 葛西アナには「我々のコンサートの司会もやってくれるか」と洒落で聞いてみたところ、「勿論です、名刺にメール番号ありますのでご連絡下さい」と言っていた。ウチにはプロはだしがいるのにねー・・・
 とにかく撮った写真送るね。(写真は2枚とも依田さん提供)


●丸亀君の長女、結婚。Chor '99が祝いに
(2005年9月11日掲載)
 ースの丸亀英雄君の長女暁子(あきこ)さんが9月11日、総選挙の日(総選挙日はあとで決まりました)に華燭の典を挙げられました。丸亀君の希望もあって今回は彼がもうひとつ所属しているChor '99のメンバー12名が白金にある披露宴会場にお祝い演奏のために参集しました。管理人はChorのメンバーではありませんが、「オレがいないとベースも締りがないだろう」と押しかけ出演となりました。

 披露宴も半ば、4階の控え室から会場係の誘導で6階の会場に上がったところで、天の底が破けたかと思うかのような凄まじい雨が爆雷を伴って降り始めました。美しい庭を見下ろす大きなガラス面には大きな雨粒が叩きつけるように当たり、視界一面が真っ白に見えるほどでした。こ〜い演歌2曲が終わったあとの会場内での演奏中も外の雷鳴がとどろき、丸亀君も加わったさしもの男声合唱13人の音もかき消されんばかりの有様。(もっともかぶさる音は雨と雷だけではありませんでした。あの場にいた人ならお分かりでしょう?) ところで関係者によると、新郎は極め付きの雨男だそうです。
 3曲の演奏が終わって控え室で小降りになるのを40分ほど待ちましたが、一向にその気配なし。幸いに会場側が近くの地下鉄駅まで臨時バスを出してくれたおかげで全員無事に会場を後にできました。

 チャペル祭壇前まで花嫁である愛娘をエスコートしたときの感動を丸亀君に聞こうと思ったのですが、それはまた改めて彼からBBSに投稿があるでしょう。
 真っ白なウェディングドレスだった暁子さん、夫君と末永くお幸せに。丸亀君、ひろ子さんご夫妻、おばあちゃま、本当におめでとうございました!


 なおChor '99の第一回単独演奏会は本年12月3日(土)、すみだトリフォニー・小ホールで開催されます。演奏会詳細はここをクリック。


●中央大学ホームカミングデイ出演について(2005年9月10日掲載)
 
●期 日 2005年10月23日(日)
●集 合 13:00 (集合控室は未定)

<要 領>
 1. 会  場   八王子校舎内 特設ステージ(ヒルトップと図書館の間の広場)
 2. 集合時刻   同日13:00 (当初予定より1時間遅くなりました)
 3. 集合場所  大学内控え室(場所未定) 団員とピアニストを別々にする。昼食あり
 4. 出演時刻  14時20分より15時00分までの40分間
 5. ステージ  スイングクリスタル(12:05から)、和太鼓(13:30から)の後に、同じメインステージで演奏する
 山台(幅7間、約13m)を一段載せる
 6.演 奏 曲  @校歌「草のみどり」、A応援歌 「ああ中央の若き日に」 Bオーラ・リー  
 Cいざ起ていくさびと D斉太郎節 (宮城県民謡) E浜辺の歌 (日本歌曲) 
 F慕情 G箱根八里 H惜別の歌 (中大学生歌)  
 以上9曲(暗譜のこと)
 7.ピ ア ノ  強雨の際は室内に会場を変更するために、搬送が容易な電子ピアノにする
 8.駐 車 券  事前申し込みで、配布が可能
 練習時に団員に確認し、代表幹事が大学に申請する
 9.聴  衆  ステージ前にシアター形式の椅子席を100席程度、その後ろに円卓付の100席が配置される
 10. プログラム  当団のプロフィールと写真、曲目(抜粋)を掲載する
 11. 報 酬  あり
 12. 服 装  ユニフォーム上下、青紺のタイ
 13. そのほか  センチュリーハイアット東京が広告を出稿、懇親会抽選商品2点を提供する



●12月25日にホテルでロビーコンサート(2005年9月7日掲載)

 
年の総会・懇親会は昨年同様に新宿のセンチュリーハイアット東京で開催されます。開催日はクリスマス当日の12月25日(日)。
 管理人はご縁あって男声合唱団東京バーバーズの演奏会(彼らはショーと呼びます)の司会を数回務めましたが、8月の彼らのショーの打ち合わせで「どこかで自分たちも家族同伴で年末のパーティをしたい」との希望を聞き及び、それなら管理人の勤務するホテルで同じ日にやりませんか、と提案しました。しかも男声合唱団が2つも来るのだから、交歓演奏会をしませんかと言ったところ、彼らも大賛成。そこで管理人がホテルの宣伝担当者に企画を持ちかけたところ、「今までにない企画で面白いじゃないですか」と、とんとん拍子に話がまとまりました。
 細かい打ち合わせはこれからですが、当日の11:00から45分間にわたって8階まで吹き抜けのロビーで各団の十八番の曲を交互に披露することになりそうです。


●第3回OB合同練習を開催(2005年9月4日掲載)
 
9月4日午後1時から代々木オリンピックセンター内の音楽演劇練習室で開催された合同練習には老若45名のOBたちが参加しました。柔軟体操と発声練習の後、今井康人君(昭和57年法学部卒、コール’99指揮者)の指導で「秋のピエロ」。さすがに今日初めて参加の古手OBもこればかりは手馴れたもの・・・。のはずでしたが、昔取った杵(きね)もだいぶ重くなってしまったようで、譜面と首っ引きの様子があちこちに見られました。

 続いて難曲の「路標のうた」(木島治作詩、三善晃作曲)を今井君の指導で約2時間。二群の男声合唱とピアノのための、という副題のついたこの曲は不協和音やリズムもさることながら、もともと2つあるベースやバリトンがさらに二声に分かれるというちょっと変わった構成になっています。今井君だけでは指導が行き届かないために、途中2回テナー部16名がパート練習のために3階の別室で練習を行いました。ベテランの藤澤賢二さん(昭和38年法学部卒、白門グリー副指揮者)が指導したのですが、別室にはピアノがなくハンデを背負っての練習となったのが気の毒でした。

 都内の出版社で編集者を務めている今井君(左写真)の指導はよく曲を細かく研究してあるだけでなく、修練度の異なるメンバーのために急ぎすぎず、かといって停滞もせず、しかも短い時間を効率的に使って指導するという密度の濃いものでありました。合同練習が初めての管理人でありましたが、コール’99がうらやましくもありました。

 残りの時間は「海よ」(高野喜久雄作詩、高田三郎作曲「水のいのち」より)、「冬の夜の木枯らしの合唱」(中田浩一郎作詩、石井歓作曲「枯木と太陽の歌」より)に費やし、午後4時50分に終了。この後拡大OB幹事会が構内で開かれた模様です。

▼小川さんに囲碁段位。信頼性と権威に疑問の声噴出
 
日届いたばかりなんだ、と小川勝久さん(昭和37年卒)がやおら取り出したものがありました。練習を開始する直前のことです。見れば「認定証」と大きく書かれた書面です。「介護の認定証ですか」と茶々が入るのを無視する喜色満面の小川さんによれば、永年の鍛錬と研究熱心さが認められ、棋力五段と認められたものだそうで。「日本棋院発行のものじゃないんだが、ちゃんとした権威ある団体が発行したものなんだ」と胸を張っています。

 へえ、と囲碁とオセロゲームの違いも分からない管理人、実力はともかく囲碁には一家言ある江畑さんらが覗き込んでみると、発行元は日本囲碁連盟なる団体。囲碁連盟?知らねえな、と首をかしげた万年C級を脱しない江畑さんに「ま、カネ欲しさに認定証を乱発する連盟、団体は多いからな。これもその類じゃないのかな? いったいいくら払ったんです?」と突っ込まれる始末。おまけに管理人からは「五段とありますが、誤段の間違いではないですか」と揶揄されるに至っては、小川さんもたちまち憮然とした表情。

 それでも認定証を持った写真でもいかがですか、と水を向けると再び笑顔に戻り撮影に応じてくれました。なんでも賞のたぐいは鎌倉高校時代、県下の相撲大会参加賞(残念賞)以来とか。なにはともあれ、オメデトーございます。


8月

●台風の日の小さな事件(2005年8月4日掲載)

▼一人で練習場に
 
7月26日、ベースの飯田昌男さんは台風による電車の遅れを心配して、いつもよりも早い午後4時に埼玉の自宅を出て渋谷の練習場に到着した。ところがいつもは誰かが先に来ているはずなのにスタジオは鍵の掛かったまま。仕方なく「くまもとや」に降りて尋ねるが不知。店主がわざわざ鍵を保管している事務所に同行してくれて尋ねると、今日は使用が取り消されている、とのこと・・・・・・。

▼「CDが欲しい、という女性から電話が・・・」

 中止の理由が分からず訝りながらも、「雨の中、ここまで出てきたんだから」(帰ればいいのにネ)と、「くまもとや」で一人で飲み始めた飯田さんと店主(客少なく暇な様子)で話しが弾んだ。
 彼の手には一枚のメモ。何のことか、と事情を聞く。
 彼の説明によれば昨日、ある女性から店に電話が入ってきた。白門グリークラブと連絡が取りたいと言う。
 その日は練習日ではなかったので誰も来ていないことを告げると、「今日のひととき」のCDが欲しいのでその旨を伝えて欲しい、とのこと。そこで店主は彼女の連絡先をメモにしたのである。
 そのメモを受け取った飯田さんは日曜練習(7/31)で、CDを管理している高木辰夫さんに事の次第を話し、彼女への連絡メモを渡して、連絡の上「送付して欲しい」と依頼したわけである。
 高木さんは、早速彼女に電話したのだが、掛かった先は全くの別人宅。そこで昨夜の練習時に飯田さんに確認を求めた。そこで飯田さんは、練習後に「くまもとや」で当日のメモと照合してもらったところ、店のメモに書かれた電話番号と違っていたことが分かった。そこで飯田さんは、ともかく連絡を自分でしてみようと彼女に電話をしていたのである。

▼「今日のひととき」
 飯田さんに件(くだん)の女性がいうには・・・。
 自分は健康を害して治療を受けているのだが、医師から音楽療法がいいと言われた。しかも勧められたその音楽とは「今日のひととき」だ。しかも今後しばらくその曲を使う予定と言うのである。
 その曲のことを全く知らない彼女は知り合いの書店に問い合わせた。事情を話したところ、「くまもとや」に電話してみるとよい、と女性に勧めたとのこと。そこで「くまもとや」に電話したところ、「白門グリークラブ」の人に話をしておきます」と言われた。(それが飯田さんが独りで飲んでいた7月26日の前日のことらしい)

▼どこをどうしてくまもとやに?
 事情はわかったので、飯田さんは改めて彼女に「CD担当者から送らせます」と伝えて10分ほどの電話を終わったわけだが、それを聞いた我々の間で疑問が湧いた。
1.音楽療法という言葉は知っているが、医師は、なぜ「今日のひととき」と言う具体的な曲名を彼女に伝え
た 
  のだろう?
2.本屋の店主はなぜ、くまもとやに電話してみるとよいだろう、と彼女に言ったのだろう?
  飯田さんは初めての電話ということもあって、あまり突っ込んだ質問はしなかったようだ。

1.については、
1)医師が何かの機会に「今日のひととき」を聴いて感銘した
2)医師が別の患者から「今日のひとときを聴いたら、症状が改善した」と聞いた
3)全国心療内科学会で「今日のひととき」とその治療効果について論文が発表された(まさか!)

 この曲は心休まるすばらしい小品だが、しかし病気治療に役立つとは聞いたことがない。肝心の小山先生からもそんなお話をお聞きしたことはない。もしそうならさっそくこの作品だけのCDを作らねば(笑)。

2.については、彼女のただならぬ様子に同情した店主がインターネットを検索して「今日のひととき」という曲を知った、と言うのが一番可能性が高いという意見(小生)で同席者の賛同を得た。しかし「今日のひととき」と白門グリークラブの関係、そしてCDがどう結びついて「くまもとやに電話をしなさい」になったのかが分からない。

▼サイトを検索
 そこで管理人は昨夜の帰宅後に、書店主の気持ちになりきって(実は小さい頃、読書好きの私は本屋になりたかった)インターネット検索を始めてみた。検索エンジンはGoogle。
 まず「今日のひととき」という6文字をキーワードに検索。案の定370ものサイトがヒットした。しかし最初から7番目までは音楽とは無縁のサイトばかり。8番目に当団とも交流のある男声合唱団アンサンブルレオーネのHPに行き当たる。伴奏者の女性が結婚を機に役目を離れるのでその送別会に団員が歌った、との記事である。しかし曲そのものの出自もないし、これがCD化されていると言うような記事ではない。
http://leone1.hp.infoseek.co.jp/170123watanabe.html.html

 次いで西六郷少年少女合唱団曲集が出てきた。知名度の高い演奏団体で、CDも出ている。ところがこのサイトのどこにも注文先が記載されていない。http://www.mitene.or.jp/~marukyo/cd/cd-fonchi.html
 このほかしばらくあまり役に立たないサイトが続いた。ようやく62番目に当団のサイトがヒットした。6年前の「小山章三男声合唱作品の午後」(渋谷区・けやきホール)である。しかしこれも記事のみでCDについては触れていない。http://hkmnglee.hp.infoseek.co.jp/Shochan&Hakumon.htm 
 もっともここからトップページに入り、CDコレクションのページに飛べば、第13回演奏会収録曲の「今日のひととき」が出てくる。

▼キーワードに「CD」を加えると・・・
 ここまで試した方法はキーワード「今日のひととき」だけであるが、これだとヒットしても370もあるサイトの62番目。時間さえあればひとつひとつ見ていけるが、インターネット検索に慣れた人だとキーワードを増やして検索する。そこで管理人は「今日のひととき」に加えて「CD」と2つのキーワードで検索すると! なんと一発で当団の「CDコレクション」にヒットした。店主もこうして当団サイトに行き着いたのではないだろうか。

 ここまではいい。ところがこのCDを買いたい人は例外なく、リンクされた高木さんか私宛てのメール作成画面に行き着くはずだ。それがどうしてくまもとやに? これはどう考えても合理的な推測ができない。くまもとやについて記載したページは「白門グリーとは」ページの一番下だけで、電話番号が出ているのもここだけだ。あるいは、女性がインターネットが出来ないことを知った店主が電話連絡先をサイト内で探して、ここに到ったのだろうか。

 いずれにしても私たちが歌った小山先生のこの曲が本当に彼女の病気治療に役立つなら、こんな嬉しいことはない。効果のあることを祈りたい。しかし、医師が彼女に「今日のひととき」を紹介したワケはぜひ知りたいものだ。



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