中国みやげ 「蘇洲へ行ってきました」


                                      ベース  坂田信一(昭和46年卒)

     妻 「私たちの人生もこの運河のようね・・・」
     夫 「ウンガいい、ってことかい?」  というような会話が交わされたのかも・・・。(蘇州市内にて)

編集者注:坂田さん夫妻は団員であるアコギな某旅行業者のオプショナルツアーに参加せず、敢然夫婦二人だけで列車を使って上海と蘇州を往復しました。その勇気たるや賞賛に値します。約17,000字にも及ぶこの記録は日中文芸家協会(所在地不明)の今年度のドキュメント・オブ・ザ・イヤーにノミネートされようと(多分)しています。
 なお夫婦だけでの旅行でしたので二人そろっての写真がありません。上の写真は「こんな風にして感傷に浸りながら歩いていたのかな」という勝手な推測に基づいて勝手に編集者が作ったコラージュ(合成写真)であります。
 では本文をお楽しみください。

ぷろろーぐ

 中国演奏旅行が成功裏に無事終了しました。おめでとうございます。団長はじめ代表幹事、実行委員の皆様のお骨折りに感謝します。参加された皆様、さぞやお疲れのことと思います。御自愛下さい。

 北京放送でのリハーサル時はどうなることかと不安でしたが、さすが白門、本番は強いですね。私も含めて何か特殊なアドレナリンでも出るのでしょうか。また北京放送のアナウンサー王小燕さんの日本語、うまかったですね。中国語での早口、会場の盛り上げ方はさすがでした。

 社内結婚だった坂田夫妻

 さて私の海外旅行経験は5年前の夫婦でのタイ旅行に次ぎ今回が2回目でした。前回も同様でしたが、バスツアーだけですとどうも外国へ来た実感が湧きません。今回は特に北京放送の皆さんの流暢な日本語、近代的な放送局舎、来場者の服装、表情などから東京に居ると錯覚するほどでした。そこで上海でのフリータイムの一日、中国に触れよう、何とか夫婦で自力で行動してみよう、との出発前の考えがより一層強くなったのです。


自力で蘇州へ行こう

出発前日本でノートを買った
 旅行前、蘇州へのオプションツアーは列車又はバスとの記載がありました。一度外国の列車に乗ってみたかったので参加しようと思っていたのですが、最終的にバスに決まったことでオプションツアーの参加を見合わせました。そして11月5日の上海での終日フリータイムを利用して、自力で蘇洲へ行ってみようと思い立った次第です。出発前、海外旅行誌【地球の歩き方】の購入やインターネットによる情報収集の結果、言葉のハンディもあり、独自で蘇州行きの乗車券を買うことはかなりの困難が予想されました。団員である小田急の宮本(なんにも)専務に計画を話しますと「坂田さん,大変ですよ。まあ蘇州まで行ければ、帰りは一人4,000円で拾ってあげてもいいですよ。」との温かい御言葉でした。

 最初は上海駅を見るだけでもいいや、だめだったら上海市内見学にしようと思っていましたが、この温かいお言葉で俄然闘志が沸いてきました。ありがとう、宮本さん。英語駄目、中国語全然駄目のコミュニケーションギャップを解決する唯一の手段は漢字による筆談しかないと思い至り、出発前、近所のスーパーでノートを買いました。

最初の筆談大成功

 北京放送での演奏会が無事終了し上海へ着いた夕食後、いよいよ計画実行です。
 まず蘇洲行きの乗車券の手配が必要です。そこでホテルのフロントの傍にあるよろず相談所(自分で勝手に決めた)みたいな所に行きました。若い男性のホテルマンがいました。私は笑いながら愛想良く自信を持って「ショウ・ミー・ザ・トレインタイムテーブル・トゥ・ソシュウ・フロム・シャンハイ?」 当然理解すると思ったが、ホテルマン氏は「ハア?」 再度繰り返したが今度は中国語で「何の用か」と聞き返して来ました。さすがサービス業、お客様のニーズは何なのか真面目に対応してます。「なんだホテルマンの癖に英語が出来ないの?」と私は悪態を吐きつつ、必勝ノートを取出します。「我欲 火車時刻表 上海站→蘇洲站」 見せたとたん、ビニールケースに挟み込んだ時刻表のダイジェスト版が出てきました。大成功です。今度は「蘇洲站→上海站」と書きましたが、この乗車券は蘇洲でしか買えないことが判明しました。
 【以後中国人との会話内容はすべて筆談または私の推測であるが、紙面の都合上あたかも中国語で会話しているように表現します。】

上海の地下鉄はオシクラマンジュウ


 さていよいよ上海駅で明日の蘇洲行乗車券を買わなければなりません。ホテル備え付けの地図によれば上海駅までは地下鉄が便利なようです。妻と2人、南京路を約10分歩くと地下鉄人民広場駅がありました。地下鉄の改札は日本でももうすぐJRで始まる「SUICAシステム」(スーパー・アーバン・インテリジェンス・カード・システム、非接触型自動改札システム)を採用していました。観察すると中国人入場者が改札機械上に設置された丸い円盤状の装置にカードをかざすと、回転式の改札扉が解錠され通過できるシステムとなっています。なるほど、なるほどと私達も2元の切符(カード状のもの)を買い、同じようにかざしますが回転扉は動きません。何故だろうと何回か試しましたが駄目で焦っていますと駅のおばちゃんが出てきて「田舎もんだね、ここに入れればいいのよ。」と、カード挿入口を示します。なるほど定期券はSUICA方式ですが、個別乗車券は挿入方式であったのです。

 日曜日の夜の地下鉄人民広場駅ホームは老若男女でごった返していました。人民広場駅は地下鉄2路線が交差しており、乗換駅でもあります。上海站行き電車が到着しドアが開きました。ここで信じられない光景を見ました。なんと20数人の降車客と同数の乗車客が同時一斉に乗降を開始したではありませんか。当然オシクラマンジュウ、又はラクビーのモール状態、怒声も飛ぶことになるかと思いきや、各々が各々を見事にすり抜け何のトラブルも軋轢もありません。最近は日本でも「くそガキ」、「オバタリアン」を中心に一部これに似た光景が見られますが、日本人にはこの混沌の中の秩序は真似が出来ないと思います。この後も日本でのルールが中国でのルールではないことに何回か出会いましたが、これは何なんでしょう。中国人の大陸的性格の所以でしょうか。(写真は上海地下鉄路線図)

必勝ノート、敗退す

 上海駅は上海市内の北外れにあります。大きな駅ですが周囲はやや暗く、駅前広場にはホームレスのような人々がたむろしており、私達が歩いていると突然物乞いの手が突き出てきました。見ると20才代の男ですが顔色が異様に悪く病身のように見えました。地方の農村から出稼ぎに来て、職もなく病気となったのでしょうか。ガイドの韓さんは中国では福祉に力を入れていると強調していましたが「働かざるもの食うべからず」でしょうか。その数に驚きました。

 私達はまっしぐらに乗車券売場に向かいました。窓口が10ヶ所ほど開いており人々が入れ替わり立ち代わり、窓口で集散しています。ホテルにて大成功を収めた私はノートに次のように書きました。

  11月5日乗車 特快 T722次 9:00発 上海站→蘇洲站
 軟座 2人
 (筆者注:軟座は一等車)

 窓口には3人ほど並んでいました。すぐに私の番だ、と思っていると、どんどん人が割り込んできます。日本のような所定の申込書はないようです。其々が一言、二言で用を済ませています。感心して見ているうちに更に人が割り込んできます。日本式に整然と並んでいても駄目なのです。前の人とぴったりくっ付き、しかも前の人の顔と自分の顔を窓口に対し平行にならべておかないと順番を確保できません。漸く窓口にたどりつき、勢い込んで必殺ノートを見せました。
【あらかじめ掴んでいた情報によると、軟座は車輌が少なく早いうちに満席になるようです。この場合窓口の係員は「没有」(メイヨー)と言うそうです。】

 私はあらかじめ「没有」といわれた場合の対応は考えていました。必勝ノートの2ページ目、3ページ目を使って第2志望、第3志望の列車名を記入していたのです。しかし窓口係の対応は違いました。「イー」といって私の必勝ノートを投げ返してきたのです。第2志望をめくる間もなく例の割込者がどんどん入り、私と窓口の距離は開きました。

 生まれて始めて感じた挫折とショックでした。言葉が分からずに交渉ごとをするのは、相手の善意又は熱意に頼るしかないことを、改めて実感しました。「イー」が何を意味しているか分からず、又ホテルのようにこちらのニーズを推し量る姿勢が窓口係に無いこと、雲霞のように集まってくる申込者を見ていると、それを求めることは無理であると判断しました。

 妻は「イー」とは「軟座は済んだ」と言ったのではないかと推定しました。必殺ノートは理解できたはずだから私もそう思います、しかし有名な「没有」と言ってくれれば、このキーワードですかさず第2志望をめくる体勢をとったのにと思いましたが、後の祭りです。(帰国後「イー」を中日辞典で調べますと「巳」=「イー」=済でした。)

 意気消沈して上海駅前を妻と、とぼとぼ歩きました。外国人専用の乗車券売場があるらしいでのすが見当たりません。夜の上海駅前はやや物騒な雰囲気です。妻はもうあきらめようと言います。ここで宮本さんの顔と温かいお言葉が浮かんできて、最後の闘志が湧いてきました。先ほどは一般客の窓口に行ったのですが、比較的外国人と接触の多い軟座入り口に行けば何とかなるのではないかと思ったのです。

中国の列車と駅の説明

 中国列車は軟座(一等車)・硬座(二等車)、軟臥(一等寝台)・硬臥(二等寝台)に区分されています。軟座の料金は硬座の2倍から3倍になるそうです。硬座は字のごとく固い座席で一般的には自由席、特に長距離列車は乗り降りが困難なほど混雑するそうです。

 駅舎入り口は硬・軟座別になっており、出口(降車口)も別になっています。硬座、軟座入り口には受付係員がおり乗車券をチェックしたうえ、入場を許可します。そこで荷物のX線検査(空港と同じ設備)を受けた後、待合室に入ります。待合室の端が改札口になっており、その先の階段を降りるとホームが有ります。

 列車に乗るときは各車両に車掌のような係員がおり、再度乗車券をチェックのうえ乗車を許可します。日本のように、とりあえず130円の乗車券を買って、乗ってから精算は出来ません。X検査が厳しいのは、中国ではかって列車爆破事件が頻発したためのようです。

 軟座、硬座は出入り口、待合室、改札口が別で待遇もまったく違います。戦前の租界時代の名残とは思いますが、当時は外国人優遇、戦後は共産党エリート優遇、現在は高所得者優遇と常に一般民衆は下位に置かれており、この国の区別感覚が分かります。この点ではなんでも平等を標榜する我が国は、最も進歩的な社会主義国かもしれません。

旅は妻(みち)連れ、世は情け

 さて軟座入り口には受付のクーニャンが立っています。早速ノートを見せてこの切符を買いたいと言いました。クーニャンは「ここでは切符を買えない、切符を買うなら右、外国人専用に行くなら左へ行け」と冷たく言います。私は「行ったけれども、言葉が不自由で買えなかった。もうあなたに頼るしかない。」と哀願します。何回も押し問答しているうちにクーニャン、5mほど後方のボックスに座っている年配の女性を大声で呼んで何か言っています。制服を着た年配女性は最初出てくるのを嫌がっていましたが、漸く「しょうがないな、ヨッコラショ」と云った感じで出てきました。クーニャンは私の妻のほうを見ながら「中国語を話せない日本人よ。このおっさんはほっといてもいいけど、後ろにいる女性がなんか事情があるのかもしれない。悲しそうでほっとけない、力になってあげて。」てなことを言ったのだと思います。

  上海―蘇州間の硬座指定券(表)  指定券の裏面(上海煙草会社の広告)

 おばさんは私のノートをひったくると内容を見てうなずき、さきほどの乗車券売り場の窓口へ私たちを連れて行きました。そして窓口係(先ほどとは違う人物)にかなり強い口調で話し、私のノートを見せますと、窓口係はコンピューターの検索を始めます。検索結果を見ながら窓口係が一言おばさんに言います。おばさんは「いいからアウトプットしなさい」と命じ、出てきた乗車券を私に示しました。「軟座は売り切れだけど、硬座の指定席があったわ。これでいいわね。」 毎日1時間は電車で立って通勤している我が身、この際乗車券さえ手に入れば何でも結構、「謝謝、謝謝」を繰り返し乗車券を押し抱いた私でした。特快硬座指定席1人21元でした。あらかじめの情報では軟座指定券が1人21元であったのですが、もうこの際地獄に仏、500元といわれても買ったと思います。

 このおばさんと、さっきのクーニャンには是非何かお礼をしたかったのですが、お金では公務員買収罪で逮捕される可能性もあり、品物の持ち合わせもなく残念ながら「謝謝、謝謝」で済ませてしまいました。夫唱婦随といいます。交渉の間、妻は先方といっさい交渉を行なっていませんが、今回ほど妻の存在のありがたさを思ったことはありませんでした。しかも妻はクーニャンに協力するよう念をかけていたようです。普段は尻に敷かれている私です。

 北京放送のみなさん、上海駅には中国の観光発展に縁の下で努力しているこんないい人がいますよ。中国人民と日本人民の友好関係はこんな所から芽生えるのですよ。

 こうして意気揚々ホテルに帰還した次第です。帰って宮本さんに報告したら、氏は意外な顔をしながらも「坂田さん、よかったですね。でも帰りが問題ですよ。まあ切符が買えなければ一人、そうだな、5,000円くらいで拾ってあげます」と更に値上げした温かいお言葉でした。

私は日本人の「沽券」を保てたか?

 さて出発当日となりました。列車の時間は上海発9:00ですが初めての乗車、万一を考えて上海駅には1時間前に到着するよう、7:30にホテルを出発しました。ほぼ1時間前に駅頭に到着、硬座入り口で乗車券を提示、荷物のX検査を受けて硬座待合室に入ります。

 待合室は学校の体育館のようで1千人くらいの人が入れる広さです。ここに改札口に向かって直角に長椅子が並べられています。改札口の上部には電光掲示板があり、そこに現在改札中の列車名・発車時間・出発ホーム番号が表示されています。案内のアナウンスはありますが、当然中国語であり、私達はその掲示板から目が離せないわけです。待合室の中では4、5人の制服を着た女性が蘇洲観光バスツアーを募っていました。虎丘、寒山寺、他4ヶ所巡りで15元でした。待合室に至る廊下では新聞、カップ麺、もち、茶瓶(お茶の葉が入っている陶器の入れ物)等雑多な品物を売る店が並んでいます。

 ホテルで充分用は足してきたつもりでしたが、昨日機内食を含めて4食も食べたせいでしょうか。こんな所で、もよおしてきました。この事態はなるべく避けたかったのですが、やむを得ません。トイレへ行きました。トイレは男性用と女性用が並んでいますが、その間に風呂屋の番台の様なものがあり、老婆が座っています。私が通り抜けようととすると「あんた小か、大か。大ならば2角払え。専用落し紙をあげる。」というのです。落し紙は昔懐かしいやや灰色っぽい再生紙2枚です(昭和20年代後半、我が家でも使っていた)。細かいお金の持ち合わせはありません。10元札など出すと婆さんびっくりして、混乱すること間違いありません。ポッケットティッシュを持っていましたので、それを見せますと「入れ」とのジェスチャー、いわゆる有料トイレではないようです。

 トイレに入った途端、仰天しました。大便トイレが向かい合わせに12程並んでいましたが、使えるトイレにはドアがないのです。しかもすべて日本とは反対に前向きにしゃがむのです。前回の演奏旅行の時、万里の長城のトイレにドアがなかったのが、今回は改善されていたと聞いていましたので、中国社会も北京、上海の高層ビルのごとく発展、改善されたのだと、たかをくくっていた私には大ショックです。番台の所でうろうろしていた所為か、出物はもう待ってはくれない状況です。

 告白します。「私はドアのないトイレで、衆人に見られて用を足しました」。 旅の恥はかきすてと思い、清水寺の舞台から飛び込んだのです。わたしは人に見られる可能性の一番低い、一番奥まった所に入ったのですが、それでも情けない姿を、中国人3人に見られました。用が済んで出口に向かうとき、これは壮観でした。残り11室のトイレ全部に人が入っており、それぞれが、通路に向かってしゃがんでいます。日本では【猥褻物陳列罪】が適用される光景です。妻によりますと、女性用はすべてドアはあったそうです。

 しかしトイレで宮本さんと一緒でなくて良かった。中国へ来てその「白髪三千丈」の世界観にますますのめり込んでいる宮本さんに見られていたら、それこそ「針小棒大」、何を言われるか分かりませんでした。私は3人の中国人に見られましたが、なんの恥じるところはありません。

公衆トイレの犯罪学的考察

 駅の大便トイレにドアが無いのは、中国に限った事ではないようです。アメリカ・マンハッタン中央駅もトイレにドアがなかったとの証言がありますし、アメリカの大学の男子学生寮も同様であると聞きます。前者は犯罪防止、後者はホモ防止の意味がありそうです。ドアなしで日本式に壁に向かってしゃがむことは、全く無防備であり、犯罪に対して自殺行為であることは明白です。ドアなしトイレでは前向きがベストです。「排泄行為と民族的羞恥心」との関係も、考察するに充分興味のある課題でありますが、紙面の都合上省きます。

乗った汽車は中国最新鋭車であった。

 午前8時半に私たちが乗る、T722上海始発南京行き列車の改札が始まりました。改札は昔懐かしい改札鋏を使っていました。改札を出ますと階段を下りたところがホームとなっており、すでに列車が入線しています。全車2階建ての10両編成のジーゼル車です。

 軟座車輌は1両のみでした。軟座席は日本の新幹線と同じく、全席進行方向向きで2人座席と3人座席が並んでいます。乗客は其々の指定車両に立っている車掌に乗車券を見せて乗車します。私たちの乗った硬座8号車は3人並びと2人並びの対面ボックス席でした。この列車は蘇州までノンストップ所要時間39分の特別快速です。ちなみに上海・蘇州間は約90キロですから時速140キロ近くで走ります。東京・小田原間約84キロを新幹線こだまは34分くらいですから、かなり早いと思います。硬座席でさえ21元である理由が分かりました。帰りの蘇洲、上海間は途中一駅停車し、所要時間は65分、軟座指定券が22元でしたので、料金はスピードでも決まるようです。

 ボックス席には窓から申し訳程度にテーブルが張り出しています。(30センチほど)その上に15センチ×20センチのアルミのトレイが置かれています。これは喫茶のため車内で給湯サービスを受ける際、湯こぼれ防止のため置かれているもののようです。乗客の中にはこれに紙くず等を入れている人もいましたので、ゴミ箱かと思い、私も鼻をかんだ紙を入れようかと思いましたが、妻に押し止められ危うく思いとどまりました。

上海蛇頭(スネーク・ヘッド)の姉御登場

 ぞくぞく乗客が乗りこんできます。私達の車輌はほぼ満席です。そこへ大柄、小太り、大顔の30才後半の姉御風中国女性が、20才代の男性3人を引き連れて乗り込んできました。4人はそれぞれ別の指定席のようです。私達から通路を隔てた隣りの4人ボックス席には既に2人座っていたのですが、その姉御が一言、二言小さな声、且つ命令口調で2人に話しかけますと、その2人は別の席に移動し、4人連れがその席を占拠しました。その態度と言い、風格と言い、新宿歌舞伎町の夜の世界も牛耳っていると噂される、中国のギャング「蛇頭」の名だたる親分の姉御に違いありません。恐いのでなるべく目をあわさないように、しかし注意深く観察していますと、子分のひとりに何か買ってこいと命令しています。命じられた子分はしばらくしてトランプ2組を買ってきました。いずれ車内でポーカー賭博でもするに違いありません。

中国共産主義の神髄を見た

 いよいよ列車が発車しました。上海駅は市内の北の外れですからあっという間に田園風景です。刈り取りの終わった水田が多いように感じました。列車は広軌鉄道のせいか、かなりスピードが出ているのに安定感がありました。車内では到着するまで検札はありません。駅入り口、改札、車輌入り口の3回乗車券のチェックがあったので、車内では不要とのことでしょうか。しかし発車前、指定券をもった乗客が席に就く毎に、そわそわ移動する人が数人いたので、自由席の人たちが入り込んでいたと思います。
 
 日本と同じように車内販売のワゴンが行き来します。車内販売とは別に先程乗車チェックをしていた車掌が巨大なやかんをもって茶瓶を持っている人たちに、無料で給湯サービスを行っています。その後往来でも茶瓶を抱えた人を何人も見ましたが、中国人の喫茶日常習慣が窺がえました。私の6人ボックスに座っている向窓際の男がトイレに立ちました。すると向中央に座っていた男が窓際に移り、立った男が残していた新聞を我が物顔に読んでいます。本来の窓際男が帰ってきましたが、その男は何も言わずそのまま向中央席に座ります。現在の窓際男は隣を全く気にせず他人の新聞を読み耽っています。彼らは決して知り合いではありません。もと窓際男は蘇洲で下車、現窓際男は下車しませんでした。元窓際男の下車の際、現窓際男は無表情で新聞を返しました。元窓際男も無表情でこれを受取りカバンにしまいました。この間、言葉のやりとりは一言もありませんし、トラブルも全くありません。私は共産主義の神髄を見た思いでした。

 さて初めての中国列車での39分間はあっという間です。到着を知らせる車内アナウンスが中国語と英語でありました。国内では電車に乗ると必ず寝てしまう私も、今回は緊張しており英語が聞き取れました。先ほどの姉御はそのまま南京へ行くようです。先ほどからトランプのひとり遊びをやっています。「幸せになれる?なれない?」、「あの人と結婚できる?できない?」 トランプ占いのようです。

蘇洲の客引から帰りの切符を買った

 蘇州駅に着いたものの、出口が分からない坂田夫妻(推測で作った写真です)
 合成ですが、駅と列車は本物です。

 蘇洲駅改札出口は大勢の出迎えの人で混雑しておりました。出迎えと思った人々は、ほとんど全て観光客目当ての客引でした。彼らのしつこさは、既に故宮等で経験済みですので妻と2人観光客に見られないよう、キョロキョロせずに改札を出ました。中国では乗車券を回収せず、一部切れ目を入れて返してくれます。私達が列車で蘇洲へ行った立派な記念品となりました。また宮本さんに「ほんとに行ったの? 蘇洲で全然会わなかったじゃない。」等と言われても明白な証拠になります。私たちが蘇州駅についた9時40分頃には、オプションツアー組は、まだ蘇洲に到着していないと思います。後から聞いた話ではこの頃、バス車中では私達の拾い賃は、夜の打ち上げパーティーの飲代にしようと1人1万円に値上がりしていたそうです。

 さて拾い賃を払わないためには、帰りの乗車券を買わなければなりません。まず売店で時刻表を買い、乗車券売場を探し、ノートに記入して昨夜と同じ作業が必要です。乗車券売り場は混雑しています。昨夜と同じ目に遭う可能性も充分予想できます。この段階で、客観的に見て私達の動きは明らかに日本人の観光客です。早速客引が寄ってきました。当初唯一知っている得意の言葉「不要、不要」を繰り返していましたが、先方が「上海?」と聞きましたので思わず「そうだ」と言いますと、「もう上海行き列車が来るよ、早く、早く」と言いながら背中を押して駅硬座待合室入り口へ連れて行きました。そこで客引き氏はようやく勘違いを理解、私達が帰りの乗車券を求めようとしていると察しました。やおら観光ガイドの免許証のようなものを出し、「怪しいものではない、多少手数料は必要となるが旅行社へ連れていってあげる」と言って私達を先導し始めました。宮本さんの「先方から親切にしてくるのは、何か魂胆がある、十分注意をするように」との忠告を思い出しました。しかし最初の出会いが先方にはなんの得もない出会いでした。又手数料が必要な事を最初に明示しています。出発前に読んだ【地球の歩き方】によれば乗車券の仲介手数料相場は1人10元程度です。ひとり1万円払うことと比べると安いものです。又昨夜のような思いはごめんです。結局客引について行く事にしました。

 行ったところは駅前の【蘇洲中国国際旅行社】とどんどん大きくなる名前をつけた事務所でした。50年配のおじさんが2名事務所にいました。古びた応接セットとカウンターのある日本で言えば郊外の駅前不動産屋のイメージです。まず時刻表を広げて帰りの列車を特定しました。ここでも手数料が必要である事の念押しがありました。15分ほど待たせて15時19分発上海行き特別快速、軟座指定席が手元に届きました。1人22元合計44元です。それに加え手数料合計20元で【蘇洲中国国際旅行社】の手数料明細書を貰いました。運賃に比して手数料は割高でしたが実費としては安いものです。「謝謝、謝謝」を連発してすばやくその場から離れました。




写真上:ここで買った帰路の指定券
写真左:手数料領収書








宮本さんがおっしゃるとおり客引き氏には魂胆があった

 待っている15分の間に客引氏は安くタクシーでの市内観光を斡旋すると熱心に勧誘を始めました。私達は15時19分の列車と決めた時点で虎丘、寒山寺など市内から離れた観光地はあきらめ、駅周辺の名所と市内のぶらぶら歩きに方針を変更していました。15分の待ち時間は結構長く、客引氏の話に肯き、時々首を振りながら、聞いていました。氏いわくタクシーによる虎丘、寒山寺、留園他観光地4ヶ所プラス運河下りで2人合計280元。首を振っていると、それに13品の食事をつけると言い出し、黙っていると2人で200元でも良い。最終的には180元まで値段は下がりました。しかし客引きとの会話?は良く通じます。これは先方が何とか自分の話を伝えたい、又こちらの必要としている事を聞き出し自分の商売に結び付けたいとの意欲の結果だと思います。

蘇州にて

蘇州観光案内

 私は蘇州についての知識はその時、殆どありませんでした。軍歌「蘇州、蘇州と人馬は続く…」、違ったあれは「除州」だった、そうだ李香蘭が唄った【蘇州夜曲】と言う歌があったなあ…、という程度です。私は蘇州へ汽車で行くことが目的、妻は蘇州を見ることが目的だったのです。

 ここで蛇足ではありますが、帰国後調べたことも含め、観光ガイド風に蘇州の概略をご説明します。 春秋戦国時代(紀元前500年頃)呉王【闔閭・こうりょ】により周囲25qの城壁都市として開かれ、2500年を経た古都であります(呉越同舟の呉はこの国のこと)。西に中国7番目の湖【大湖】(それでも広さは琵琶湖の約3.5倍)、北には【長江】(古い人には揚子江)があります。この水利を利用し市内縦横に巡らせた運河により水運に恵まれた交通の要衝、かつ米を始めとする穀倉地帯の中心地の蘇州は、中国各時代を通じ重要都市と位置づけられ発展して来ました。三国時代(3世紀)の呉の【孫権】もここに足跡を残しています。元の時代(13世紀)にイタリアの商人マルコ・ポーロが蘇州を訪れ、その美しさに感嘆したそうで、現在も【東洋のベニス】と言われているのは、イタリア人である彼が命名したのではないかと推定されます。

 各時代の為政者が建立した寺院や庭園が多く、市内には数十カ所の庭園があると言われています。中でも蘇州四大名園として【滄浪亭】(唐代)、【獅子林】(元代)、【摂政園】(明代)、【留園】(明〜清代)が有名です。この他漢詩【楓橋夜泊】(唐の詩人、張継)で有名な【寒山寺】・【楓橋】、呉王【闔閭・こうりょ】の墓稜【虎丘】が観光地として有名です。水運を利用した魚の集散地であり他に刺繍、絹織物でも有名です。


 ご参考(2つの詩のリズムがよく似ていると思いませんか)

 蘇州夜曲 (西条八十作詞 服部良一作曲)
  君がみ胸に抱かれて聞くは、夢の舟歌、鳥の歌
   水の蘇州の花散る春を、惜しむか柳がすすり泣く。
 楓橋夜泊  (張継作)
   月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声到客船
 (現代中国の流行歌【濤声依旧】はこの詩から作られたそうです)

道に迷ってしまった、さて何処へ行こう

 駅前の【蘇州中国国際旅行社】に案内してくれた客引き氏(大恩人)からは逃れましたが、輪タクや物売りが何百メートルも付きまとってきます。立ち止まるとその数が更に増えます。とにかく駅から離れようと闇雲に歩きました。その結果、地図上の自分の所在位置を見失ってしまいました。小さな公園のベンチに座り、一服しながら妻と今日の計画について相談しました。もう11時近くです。15時19分発の上海行き列車に乗るためには、14時40分頃には蘇州駅に入っていたい。すると残り時間はあと3時間40分しかありません。そこで駅から2キロ以内にある@北寺塔A摂政園を各1時間程度見て、駅への帰り道は町の様子、運河等を見ながらゆっくり歩くとのスケジュールを決めました。

ひ弱な背広姿の輪タク屋さん

 さて私たちの今いる場所が分かりません。北寺塔はかなり高い塔なので、それを目指せば、とは思うものの、今日はやや霧がでていて視界が悪く見えません。どこか地図上目印になるものを探そうと歩き始めました。歩くと早速、輪タクが近寄って来ます。何台かやり過ごしましたが、背広を着て輪タクをこいでいる30歳位の男に、ついにこちらから声をかけました。ゆっくり蘇州を歩こうと思っているたのですが、まず北寺塔まで輪タクで行って、地図上の位置を確定させようと思ったのです。たぶん1キロ以内の距離だと思いました。背広を着た輪タクのお兄さんにノートで北寺塔までいくらと示しますと、10元と書きます。背広で輪タクとはおかしなスタイルですが、何の疑問もなく乗ることにしました。

 北京、上海、蘇州、どこでも同じでしたが、道路には自動車・バイク・自転車・輪タクが入り乱れて走っており、それに横断歩行者が加わる混沌状態です。信号は数少なく、あっても自転車、歩行者はあまり気にしていません。地下鉄で体験した混沌の中の秩序がここにもあります。そんな中で、輪タクは自動車、バイクから邪魔者扱いされています。しかしお客を乗せた輪タクは果敢にその混沌の中に乗り出してゆきます。背広の兄さんは痩せぎすで、あまり体力はなさそうです。よろよろと車道に乗り出してゆきました。脚力が弱いため左折など一旦停止状態からの発進に時間がかかりすぎます。自動車、バイクの直進車は遠慮無く突っ込んできます(中国の車両は右側通行です)。いや本当に恐かったですよ、免許取り立ての時の妻の運転といい勝負でした。
(写真は市内の輪タク)
 坂道にやってきました。大した坂道ではありませんが、10メートルも登ると輪タクの兄さん、息が上がり、こぐのを諦めて歩いて輪タクを引き始めました。妻は気の毒だから私達も降りて輪タクを押そうかと言います。妻は私の体重が重すぎるから輪タクの兄さんが可哀想だと思ったのです。彼とは10元で運送契約をしたのです。彼としてもプロのメンツもあるでしょう。私は妻の意見に反対しました。漸く坂上に来ますと兄さんはにっこり笑い「運河ですよ、綺麗でしょう、降りて写真でも撮りますか」と言います。さっきの恐怖をまだ引きずっている私は「そのまま行ってくれ。」と促しました。北寺塔に着きました。輪タクに乗っていた時間は約15分、距離にして2キロ以内だったと思います。10元渡すと兄さんにっこり笑い「謝・謝、次どこへ行きましょう。ここで待ちますか。」等と一人前のことを言います。「いいよ、あとは歩く。」と言いましたが通じたかどうか。私たちはそのまま北寺塔の門前に進みました。

北寺塔のてっぺんには日本語を話す番人がいた

 北寺塔は通称名ですが、呉の孫権が建立したお寺です。本堂の前に八角形の屋根を持つ9階建ての塔が聳えています、7階まで登れます。お寺の拝観料が10元、塔に昇るためにはあと5元支払います。塔の高さは76メートルと高く、ビルの少ないこの町では上に登れば蘇州が一望できる筈です。5元払ったら、エレベーターに乗れる等と言うことではありません。

 ふうふう言いながら急な階段にめげず80キロの体重を運びました。塔の周囲の回廊をぐるぐる回りながら階段を一階ずつ登る構造になっていますので距離的にもかなり歩いたと思います。大汗をかいて7階建まで登ると、そこにはあと1元払えと貼紙があります。下で5元支払ったときには何の説明も表示もありませんでした。これは詐欺ではありませんか。苦しい思いをして登ってきたのに更に金を払えとは。私は思わず「何故だ」と叫んでいました。すると貼紙の先にいた大男が日本語で「高いところに来たのだからお金も高いのだ」と大きな声で答えました。あまりタイミングが良いので笑ってしまいました。仕方なくあと1元払いました。その男はその一言だけ日本語で言うと、あとは中国語で喋っています。あなたは日本語が出来るのかと尋ねても中国語しか返ってきません。たぶん今までも同じ質問が日本人からあったのでしょう。トラブル防止のために誰かに教わったのだと思います。

 そこではミネラルウォーターが氷で冷やしてあり、1本10元で売っていましたが、忌々しいので、喉はからからでしたが買いませんでした。1元くらいケチで言うのではありません。苦労して登るのは、宗教上の修行、天上に来た喜捨で1元という理屈はありますが、ここは共産国です。公には宗教は認められていないはずです。

 それはさておき、高いところに登るのは気持ちに良いものです。当然東西南北すべて見渡せますが、残念ながら当日は霧のため視界は1キロメートル程度しかありませんでした(右の写真)。街はモノトーンのしずんだ感じで低層の建物が広がっています。街全体が静かで落ち着いた、まさに古都のたたずまいです。南方面に場違いに見える高層ビルが数棟霞んでいました。非常に違和感を感じましたが、市の中心部のホテルなど繁華街だと思います。この街が京都タワーなど馬鹿な建物を認めた京都市の愚を犯さないことを祈ります。
 足元を見おろすと、先ほど一応境内はぐるりと見たつもりでしたが、本堂の裏に白塀に囲まれた庭園があります。かなり広い、良く整備された庭園です。高いところに合計6元払って登った甲斐がありました。見落とすところでした。庭園は池と岩、樹木(梅が多い)と花を配した良く整備された回遊式庭園でした。私は金沢出身で兼六園は子供の頃の遊び場でしたが、日本の庭園のルーツを見た思いでした。本堂では老婆が仏像にひざまずいて何回も叩頭をしています。観光に来たと思われる若い坊さん風の人も見かけました。この国では老婆の信仰心は黙認されているのでしょうが、この坊さんの存在には疑問が残りました。ここの便所は男女ともドアがありましたが鍵はなく観音開きの上、仕切の高さが1メートルくらいしかありませんでした。朝すましているので、利用したわけではありませんが、あれ以来トイレにはこだわります。トイレは【厠所】と表示されていました。

坂田夫妻、中国であわや誘拐

 また輪タクに乗りました。北寺塔の次は摂政園の予定です。地図上では800メートルの距離でゆっくり歩いても、20分足らずで行ける所です。北寺塔の門前で先ほど塔の上でのどから手がでるほど欲しかったミネラルウォーターを飲みながら、妻と地図を確認しています。そこへまた輪タクが客引きに来ました。がっしりした中肉中背ですが、まだ幼さを残した顔つきの20代前半の坊やです。私たちの地図をのぞき込み、安く何処へでもも行くと言います。「不要」を繰り返し、その都度追い返すのですが暫くするとまた寄ってきます。そのうち私のセーターを指さし「スーシュウ、スーシュウ」と繰り返します。ノートに書かせますと「有名な蘇州刺繍の店に行こう」と言います。即座に「ノータイムだから不要」と言いますとしょげて引き下がります。暫くするとまた「スーシュウ」を繰り返します、本当にしつこい男です。また「ノータイム」と言って追い返します (実はここに問題があったと思います。答はあとで) 。

 我々は歩き始めますが50メートルばかりついてきます。根負けし地図を示し「摂政園まで2人5元で行くか?」と問いますと笑顔で行くと言います。割と広い並木のある一本道です。先ほどみたいな恐いことはないと思いましたし、町並みを輪タクで眺めるのも悪くないと思い結局乗りました。道端で路上に直に魚を盛り上げて商売している魚屋、白壁門を背に野外で、鏡もなしで営業している理髪店などを、見ながら輪タクは進みます。地図を見ながらすぐ先が摂政園だと思っていますと、左に曲がります、入口が横についているのかな、と思っていると暫く行って今度は右に曲がります。道は狭くなり、人通りも少なくなってきました。妻は最初はのんきに珍しい町並みを見てはしゃいでいましたが、この辺まで来ると不審を抱き始めました。
 「あなた何だか変よ。私たちなんか変なところに連れて行かれるんじゃないかしら。だんだん淋しい所になっていくわよ。」 私は2度目の曲がり角で気がついていました。輪タクの坊やは「刺繍店」に連れて行く気なのです。しかし私は地図を見ていましたので位置関係は分かっています。この次にある大きな角を右に曲がり、その次の角を更に右に曲がるとまた摂政園の通りにでるのです。坊やはやがて止まり、「着きました、旦那どうぞ。」と言いました。私は怒った口調で大きな声で「不要」と言い地図を示し「ノータイム・摂政園へ行け。」

 坊やはびっくりした顔をして、また走り始めました。道順の通り摂政園へ着きました。坊やは800メートル走れば済むところを、800×4=3,200メートル走ってしまったのです。目的地に着いた時、坊やは電信柱に両手をつき、肩で息をしていました。妻は「可哀想だから、10元あげたら。」と、先ほどの怯えはどこかに行ってしまったように言います。「いや、彼が約束を破ったのだから」と冷たく5元を渡し、その上でチップとして2元追加しました。坊やは満面の笑みで「謝謝」を繰り返しました。たぶん刺繍屋へお客を連れて行くと、坊やは2〜3元もらえるのでしょう。またはお客が品物を買うと歩合がもらえるのかもしれません。

 反省と先ほどの回答…私たちの「刺繍屋へは行かない」と言う意思は全く伝わっていなかったのだと思います。蘇州へ来てすべてうまくいっていたので、過信していたのでしょう。日本での日常生活でも言葉の行き違いがあります。漢字の断片の筆談のみで意思が通じていると思う方が大間違いです。そう考えると、さっきの坊やには悪いことをしたと思いました。 「まあ2元チップをあげたからいいか。」

茶館で悠久の時を過ごした

 摂政園は16世紀、明の高官王献臣という人が罷免され、当地に来て作った回遊式庭園です。閑居賦という詩の一節「摂者之為政」(愚か者が政治を行なっている)から摂政園と名付けたそうです。四大名園の1つですが、入場料はこの中で1番高い20元ですので、たぶん1番の庭園なのでしょう。(何が?) 池や堀を巡らせた広大な庭園です。もしかしたら蘇州そのものを箱庭にした物かもしれません。菊の花が盛りでした。
 庭園の中に茶館があります。4人掛けテーブルが8つと小さな売店がありましたが誰もいませんでした。私たちが入るまで庭で4〜5人でおしゃべりしていた50年輩のおばさんが戻ってきましたので、三杯香と言う緑茶を1人10元で注文しました。茶葉を入れた大きな蓋付きの茶碗と大きなポットが出されました。30分ほど居て4杯ほど飲みましたが、中国茶はあとの方が旨くなるようです。おばさんはお茶を出したあと、また庭にでておしゃべりです。遠くから聞こえる中国語のおしゃべりは、鳥のさえずりです。茶館はガラス張りで四方に庭が見えます。中国のこのような施設は国営のようですが、ここで働く人は公務員でしょうか。この庭園の中にはお土産売り場もありましたが、若い4人の店員はおしゃべりに夢中でお客に全く気を留めませんでした。まさに有給の時でした。

帰途につく

 約40分かけてぶらぶら歩きながら駅に向かいました。各商店とも間口が狭く、しかし奥行きは随分ありそうです。この点では京都と同じ町並みと思いました。やはり2500年の中での戦乱に備える知恵が共通するのでしょうか。奥を垣間見ると、石造りの塀を囲い一族のコミュニティーが形成されている様子の造りでした。30メートルほど歩くごとに煙草屋があり、多種の煙草のカートンが堆く積まれていますが、外国煙草は扱っていないようでした。かっての日本のようなおばあちゃんの店番程度の仕事ではなく、町でも有力な商売として成り立っている様子です。中国の喫煙人口はかなり多いと推察しました。路上で旨そうなフルーツケーキ風のお菓子を切り売り販売しています。今日は昼飯を食べていないので、買いたかったのですが、タイでお腹をこわし、大事になった前科がありますので妻に止められました。

 蘇州駅で軟座の待合室に入りました。硬座と違いトイレにはドアがありました。列車の軟座席は2人座りの対面席で硬座より若干広い程度。乗客は日本人の団体客と単独旅行の若い欧米人が主で、あまり面白味がありませんでした。中国列車は硬座に限ります。 

エピローグ

 当初この原稿は、宮本さんの呼びかけに応じ、白門グリークラブ・ホームページに旅行参加者の紀行文又は感想文として書き始めました。1,000字以内とのことでしたので、そのくらいなら書けるかなと思い筆を執りました。意外や筆が進み、帰りの切符を買ったところまでで、1万字を越えてしまいました。字数が多いこと、宮本さんを上げたり、下げたりしたことを考えると、編集者たる宮本さんの権限で発禁処分(正しくは掲載禁止処分)になる可能性もあることから、とりあえず「続く」とし、原稿を練習後【くまもとや】で飲みながら宮本さんに読んで貰ったのです。

 宮本さんは「ウヘー、こんなに書いてしまったんですか。」と苦笑しながら拾い読みしています。「面白そうですね、掲載については何とかしましょう。」と宮本さんから許可を頂きました。しかし「続く、と書いてありますが本当に書くことがまだあるんですか。」と懐疑的です。お陰様で原稿を読んでいただいた方々から「面白いからもっと書け」とのメール等も頂き、又書き始めた次第です。1,000字のつもりが結局約17,000字になってしまいました。

 言葉が全く分からない旅は無謀ですし、危険も伴うこともあると思います。曲がりなりにも事前に情報を集めていたのが、結構役に立ちました。行った先が有数の観光地ですし、幸運にも恵まれたと思います。旅行主催者の宮本さんにはご心配やらご迷惑をおかけしましたが、お陰様で心に残る旅の一日になりました。拙い文章を最後までお読みいただいた皆様にお礼申し上げます。ありがとうございました。
(写真:観光中も執筆の壮大な構想を練る筆者)
                                             平成13年11月24日

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