北京旅行記
                                         中央大学グリークラブ 須永紀彦

編集子:演奏旅行を1ヶ月あまり後に控えたころ、依田団長はじめ実行委員のメンバーは一つの深刻な悩みを抱えていました。それはトップテナーの参加不足でした。確実なのは織山、桜井の両氏のみ。他のパートは5〜8名の参加が予定されていながらトップのみがこのありさまでした。仕事から手が離せないという理由が多いのですが、それだからこそ1年半前に実施時期のアンケートも取って一番多くの参加が見込まれるこの時期(2001年11月2〜6日)にしたのに・・・。しかし今更参加不足を理由に実施を見送るわけには行きません。なんとしてもトップの参加を、しかし不参加の団員の翻意は今になっては難しい。
 そんなある日の練習後、くまもとやから渋谷駅への帰り道。依田団長、カメ、編集子が歩きながらこの話題になりました。
 「ブーと須永君に声を掛けるか?」とカメ。
 ブーこと田中宏君は超多忙な現役弁護士。OBでつくる別な合唱団に入れ込んで、最近は練習も欠席がち。しかし譜読みは早いし、高音の響きはピカイチ。一方、現役学生の須永君はほぼ毎週白門グリークラブの練習に参加するOB担当。現在練習中の曲はほぼ歌えるはずです。全員が賛成して早速彼らに連絡することにしました。
 

 「北京に一緒に来ないか?」
 いつもの飲み屋の何気ない会話から僕の旅はスタートした。石井監督に言われたときは戸惑ったふりをしてみたが、正直言ってとてもうれしかった。でもさすがに明日すぐにパスポートを取りにいって来いって言われたのにはびっくりだったけど。そんなわけで僕の白門グリークラブ北京演奏旅行への同行が決まった。白門の方々はとても親切にしていただいてほんとに感謝している。さらに多額の研修費や旅費を援助してもらって僕はほんとに幸せ者である。ただ、これで卒業後の白門入団がほぼ決定的になったのでは?と思う今日この頃であるが(笑)。

さてテロなどの様々な心配があったが無事北京にたどり着いたところから書き始めるが、まず僕は空港からバスに乗って北京市内に向かっている車中驚きっぱなしであった。道路の広さ、見渡す風景。まさに中国と言った感じで子供のようにキョロキョロ辺りを見回していた。もっとも白門の方々にとって僕は子供のような年齢だが。人によっては孫って方も…最初に故宮にいって次に天安門にいってと次々と書いていたらきりがないので一番印象に残った北京放送での事について書きたいと思う。 
 
 僕ははじめ北京放送の公開録音に出演すると言っても、どうせそんなにお客は入らないだろうし、見に来る人もおじいさんやおばあさんだろうなと勝手に想像していた。しかし実際は満席で立ち見が出て、しかも僕と同じくらいの年齢の人がたくさんいたことに驚いた。演奏自体は自分なりに上手くいったと思う。やはり中国の歌を歌ったときが一番うけた。中国語の発音に苦労したが発音もお世辞かもしれないが誉められてよかった。お客さんから盛大な拍手をもらったときすごい気持ちがよかった。こういう言い方はよくないが日本のおじさん連中が歌うハーモニーに異国の地の自分と同じ年くらいの人々に盛大な拍手を起こさせた現実が信じ難かった。それだけの力を白門グリーの方々は持っているんだなぁ、と改めて知らされた瞬間だった。

 途中一番の若手と言うことでインタビューをうける場面があったが、これは結構緊張した。質問をしてくる相手は同じ中国人大学生なのに上手い日本語を喋っている。僕は中国語をしゃべれず(習ってないから仕方ないが)なんか恥ずかしかった。自己紹介ぐらい覚えておけばよかったと後悔した。ちなみに僕がこの旅行中に使った中国の言葉は5つぐらいである。レセプションの時に同席した方に聞いたのだが中国の学生は1日に4、5時間しか眠らずあとは勉強しているらしい。これもレセプションの時に聞いたのだが僕のことを北京放送の誰かが学生なのに勉強しなくていいの?と心配していたそうだ。大きなお世話だよと言いたいが、同じ大学生として恥ずかしくなった僕は日本に帰って勉強することを心に誓った。でも帰国した翌日の語学の授業を2つサボってしまい、早くもその野望が崩れることになるのだが。

 滞在中はいろいろあったが充実した5日だったと思う。普段聞けないいろいろな話を聞くことができたりもしたし。ほんとに石井監督、団長の依田さん、宮本さんをはじめいろいろな方にお世話になりました。ありがとうございます。一生のいい記念になりました。また機会があれば行きたいですね。
 まとまりませんが旅行記とさせていただきます。(写真:11月3日、北京郊外・万里の長城で解放軍兵士らと)

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