北京公演旅行、事始め <故宮本隆司先生を偲びつつ>

           中国演奏旅行実行委員長
           白門グリークラブ団長(セカンドテナー)  依田 安弘

 第3回目の北京公演旅行も、楽しくかつ無事成功裏に終了することが出来ました。当初米国同時多発テロという思いも掛けない状況の中で海外への渡航を危ぶむ声もありましたが、グリーメンの熱意と北京放送の方々の変わらぬご好意により実現したものと素直に喜びたいと思います。第1回の北京公演に際し「最初にして最後かもしれない千載一遇のチャンスだから皆でいこう。」と呼びかけた私としては、実に感慨深いものがあります。
 今回の北京、上海の旅の紀行文は参加された皆さんがそれぞれの思いを込めて書いてくださっていると思いますので、小生は古い思い出をたどりながら振り返ってみます。

1.前進座序曲
 そもそもの北京公演への経緯は17年前(1984年)に遡ります。白門グリークラブの活動も再開はしたものの、東京都合唱コンクールだけでは物足りず藤沢君などは「演奏会をやりましょう。どこか会場はありませんかね」と私に問い掛けてきました。キャパシティー500席程度で、安く借りられる会場はなかなかありません。たまたま仕事で会った前進座のマネージャーに「前進座劇場は音楽会が出来ないか」と聞いたところ、「出来まっせ、キャパは500です。お安くしておきまっせ」との事。
 しかしそれからが大変。前進座はご存知のごとく芝居小屋。譜面台、指揮台、ピアノ、反響版等演奏会に必要な設備・備品が無く、急遽テレビ局出入りのリース会社から取り寄せる始末でした。余談ですが、このときのリース代が催促したにもかかわらず請求書が来ず、未払いのうちに時効と相成っております。
(写真:1984年7月15日に前進座劇場で開かれた第4回演奏会)

 そんな状態の中で再開公演は終了しましたが、久しぶりの演奏会の味は特に創立メンバーには感動的であったようです。演奏会がはねて帰宅する山手線の中で、加藤先輩は興奮冷め遣らず、「依田君良かったなー、だけど俺ももう来年50だヨ。あと何回こんな興奮を味わえるかナー」と呟いたのが印象的でした。
 私自身、家に帰るとワイフが「お父さんのステージで歌っている顔は家では見せた事がないイイ顔だったヨ」とのたまわった。思い起こせば学生時代、演奏旅行や合宿の岡谷では、子供達や地元の皆さんが学校の講堂に溢れんばかりの状態で我々の演奏を聞いてくれたっけ。

2.北京公演への提案
 あくる日、会社の昼休みにアナウンス部の脇を通りかかったら、宮本隆司先生がお一人で新聞を読んでいらっしゃっしゃいました。
 「宮本さん、ちょっとお邪魔していいですか」
 「どうぞ、どうぞ」。
 そもそもこれがきっかけでした。
 「じつは…私男声合唱をやっておりまして、昨日演奏会を云々かんぬん…。中国ではこんな男声合唱団の演奏を聞いてもらえる環境はありませんか」
 先生はしばらく私の顔を見つめながら沈思黙考。
 数秒後「依田さん!」 先生は何時も言葉が丁寧です。
 「私が何とかしましょう、おまかせください。」。
 「ヘ?…」
 そこまでのことは考えてはおらず、ただ中国に大変詳しい先生に中国の事情を聞くつもりであった小生にとって一瞬狐につままれたような錯覚を覚えたものでした。
 これはヒョットしてえらいことになるかも…。しかし、クラブのメンバーはどーなんだろうか。こんな話、実現性は果たしてあるのだろうか? そこでその日早速清水軍治先輩、加藤政章先輩、同期の小川勝彦君に電話。「大事な相談があるので、時間があったら浜松町まで来てくれないか。話はそのときするので…」といって急遽集まっていただいた。
 「実は白門グリークラブで中国公演をやろうと言ったら、皆賛成してくれるだろうか…」 
 その時の三人の反応も一瞬言葉が発せられなかったが、しばらくして清水先輩は
 「三日も店を休んだら中小企業はつぶれるナ…。でも俺は行ってみてーナ、俺まだ飛行機乗ったことねーんだ。後楽園の紐のついたやつ以外はナ。」 
 あれは飛行機とは言わないですぞ、先輩!。
 加藤先輩は「俺も是非行ってみたい。本当に実現したらスゴイな」。
 小川君も加藤先輩と全く同意見。これならば正式にメンバーに呼びかけてみようという自信ができた。早速次の練習日に皆に提案することになった。幸いメンバーの賛同が得られたが、それからの一年半が大変でした。

3.故宮本先生の事
 言い出しっぺの小生と言えば、何せ海外旅行のイロハも知らず何をどう進めたら良いのやら全くちんぷんかんぷん。幸いテレビ東京の宮本先生の中国取材等も担当したことがある、毎日新聞旅行で中国を担当していた知り合いの遠藤さんと言う女性にいろいろ相談し、旅行手続きのお手伝いをお願いした。宮本先生には正式にコーディネイトをお願いし、間もなく北京放送側と折衝した結果をお知らせいただきました。
 宮本先生は北京に生まれ、中学生の頃まで北京で過ごされた経験をお持ちでした。大阪外語大学では中国語を専攻、NHKのアナウンサーになられ、東京12チャンネル開局前に入局された私の大先輩であります。完璧な北京語を話し北京放送の日本語部のアナウンサーに日本語の指導をされ、彼らは先生のテープで日本語を勉強したと北京放送の方からも聞いていました。
 また「東京12チャンネル」という呼称も先生の発案だと聞いています。東京オリンピック閉会式の名アナウンスも未だに記憶に新しく、テレビ東京の数少ない人気番組「ローラーゲーム」の解説では“ドクター宮本”として知られていました。
(写真:1984年11月についに初めての北京演奏旅行へ。北京・天壇公園で。左が宮本隆司氏。右が筆者)

4.難産と感激と
 宮本先生の人間関係がフルに発揮され、ご存知、陳真先生、日本語部長・李順然先生の了解が得られ、話はとんとん拍子にすすめられました。東京支局の朴先生も全面的協力を表明してくださいました。
 しかし具体的計画の中味は当時の郵便事情もありなかなか時間がかかり、公式ビザの発行も年が明けても思うようにはかどらないもどかしさでやきもきする日が続いたものです。一方で韓国公演など経験者の野中君には国際交流基金の申請ほかさまざまなアドバイスやら、加藤先輩と外務省の後援名義の要請などそれぞれの貴重な手助けをして頂き心強いバックアップのもとに着々と計画は進んでいきました。
 順調に事が運ばれているものと思っていた夏過ぎ、東京支局の朴先生から「中曽根総理の靖国神社参拝のため、中国では学生達が反日集会を開いているので、白門グリークラブの中国公演は延期するか中止してほしい」との申し入れがされました。実は北京放送側は北京大学での公演をメーンイベントとして予定していたようでした。これは大変なことになった、しかし今さらやめるわけには行かない。
 「朴先生、私達は北京大学で歌うことが目的ではありません。私達の歌を聞いてくださる方々がいればどこででも歌います。なんとか実現してください」と懸命に訴えたことを昨日のことのように覚えています。
 先生は「皆さんの熱意に感激しました。北京にもう一度皆さんの気持ちを伝えます。」 
 こうした経緯を経て先方が用意してくれたのが、あの文化部礼堂で行われた西城区の身体障害者との感激のチャリティーコンサート及び交歓会でした。身障者達は手作りのケーキやら、お人形やらを用意して歓迎してくれました。演奏後の会場出口で車椅子の方々を歌いながら送った涙の交歓も忘れ難いものです。身体障害者が外国人によりチャリティーコンサートに招待されるということは初めてと言うことで「人民日報」の記事にもなりました。
 ここから先の感動の旅はメンバーの皆さんの数々の思い出の中に共有されている部分と重複しますので割愛しますが、万里の長城で歌った「ソーラン節」、人民公社の幼稚園児の可愛い歌と踊りの歓迎に涙したこと等は今でも忘れることができません。
 また1988年、第二回目の公演では、北京放送大学の講堂で超満員の学生達が待っていてくれたことも忘れ難い思い出です。


(写真:1984年11月の演奏旅行で当時の北京放送本局を訪問。後ろにある重厚な建物は旧ソ連により建てられたものです。現在の本局は北京市西側の近代的な建物に移転しました)

5.陳真先生との出会い
 
 ここでどうしても陳真先生との出会いを記したいと思います。陳真さんの波瀾の半生は最近東方出版社から出版された彼女自身による「柳ジョ降る北京より」に詳しいが、中国語を勉強した日本人は誰でもご存知の北京放送局日本語部の最ベテランであり、日中要人の通訳などもつとめ、井上靖他日本の文化人に非常にお付き合いの深い大変立派な方です。
 彼女は宮本先生とは逆に、幼少期を日本で過ごされたようで、その日本語力は我々日本人の遥か上を行っております。北京への公演旅行の話が見えてきた1984年の暮れも迫っている頃、宮本先生がテレビ東京に近い東京プリンスホテルで陳真先生を紹介して下さった時の思い出は今でも鮮明に残っております。
 宮本先生が北京語でペラペラ…とお話になられるとしばらく北京語で応じておられた陳真先生が、ぽかーんとしている小生に気づき、「宮本先生、日本語でお話しましょう。私は北京語下手ですから…。」と気遣ってくださった。その後NHKの仕事などで来日された陳真さんは音楽が大変お好きなこともあり、たびたびお忙しいスケジュールをさいて白門グリークラブ演奏会にも顔をみせてくださったことは、皆さんご存知のとおりです。(写真は1991年5月14日、東京支局勤務の陳真女史が練習を訪ねてくださった際のもの。左から加藤政章、石井秀之、陳真女史、筆者の各氏)

6.結びに
 その後北京放送関係の人々が来日され、石井秀之先輩、加藤政章先輩、清水軍治先輩が大変親しく世話をされお付き合いされていることはその後の交流が大変深まっていることを物語っております。
 「依田さん、私の息子の嫁を同行させてもかまいませんか。ピアノも弾きますが」、といって宮本先生が1985年第一回北京公演にお連れしたのが、今でも大変お世話になっている宮本あんりさんであることはご存知のとおりです。
 宮本先生は大変残念なことに1996年(平成8年)に他界され2002年には七回忌を迎えられますが、我々の感激の北京公演旅行は、こうして宮本先生、陳真先生をはじめとする関係者の方々のご尽力があればこそ実現したものであることに思いをいたし、ここに改めて今は亡き宮本隆司先生には三回目の中国公演が実現できたことをご報告し、深く感謝するとともに心よりのご冥福をお祈りいたしたいと存じます。

 又現在北京で病気ご療養中の陳真先生には、一日も早いご快癒を祈念しつつ筆を収めます。
                                               2001年11月24日


(編集者注:陳真女史は2005年1月に逝去されました。謹んでご冥福を祈ります。) 

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