編集後記
白門グリークラブ、13年ぶりの中国演奏旅行 「北京へ行きましょう」と私が石井秀之氏(元中央大学理事・事務局長)に声を掛けたのは2000年の春だった。 北京放送は国営ラジオ局である中國國際広播電台の愛称である。1941年に革命の根拠地である延安に誕生した放送局で、当時は抗日放送であった。85年の第1回演奏旅行は同放送日本語部の指導を長く務めた東京12チャンネル(現TV東京)の名アナウンサーで中国生まれの故・宮本隆司氏に同局勤務の団員、依田安弘氏(現団長)が可能性を尋ねたことから実現した。中国旅行には大きな制約があった時代である。それ以来、当時の団長であった石井氏と喜美子夫人が日本支局に赴任してくる北京放送局員達の相談相手として親代わりにもなり、88年の第2回演奏旅行と相まって都内演奏会にも毎回招待するなど交流が深まっていた。 「創立60周年を迎える2001年12月ごろがいい。あの局員達もみな幹部になっているし、あるいはこれが最後の訪問になるかもしれない」と古希を迎えた石井氏は少し感傷的になりながらも賛成してくれ、ほどなく団員達の賛同も得られた。 それから1年半余り、16年ぶりの中国演奏旅行は昨年11月2日に石井氏はじめ団員や家族など41名で成田空港を出発した。直前には支局員王丹丹嬢や日本で活躍中の元局員王倍女史が付きっ切りで北京語歌詞の発音指導をしてくれた。苦労はそれだけではない。9月になってテナーを中心に不参加者が相次ぎ、さらに米国同時多発テロで海外旅行への不安が増した。実施を見送ったほうがいいのでは、との声も聞こえてきた。 その一方で何とか実施をしたいと思う私たちは、多忙で練習になかなか参加できないでいた弁護士の田中宏君(82年卒)としばしば練習に参加していた現役グリー2年生の須永紀彦君にすがるような思いで事情を話し、幸いに参加の快諾を得た。旅行会社役員としても必死で中国旅行の安全を団員に力説した。10月初めに実施の再確認を団員から得たときにはほっとしたものである。本格化した北京放送・張富生アジア局長(元・北京放送東京支局長)とのやり取りもFAXで10回にも達し、その結果60周年祝賀番組「北京放送リスナーの集い」にゲストとして出演する事となったのである。 北京は旅行シーズンで航空機も混んでいる上に予想以上に参加家族も増えて41名にもなったものだから、往復とも2便に分けることとなった。前回の1988年ににわか添乗員となった経験のある丸亀君に全日空組15名の先導を頼み、私は26名の日航組のリーダーになった。丸亀君にはだいぶ心配を掛けたようである。到着後の北京観光は私の想像をはるかに超える躍進中国を印象付けるものであった。華北の夕暮れは早い。夕食前に降り立った天安門広場はあの凄惨な事件を思い出させたが、午後6時ちょうどに点灯したイルミネーションは広場をいっぺんに華やかなものとした。 11月4日には上海へ。ここからは家族とともに観光を楽しむ旅となり、市内観光、オールドファンには馴染みの深い蘇州(下の写真)などを訪れるなど思い出多いものとなった。 |