第3回中国北京演奏旅行を終えて
                       旅行団団長
                       白門グリークラブ相談役 石井秀之

 何はともあれ、大きな事故もなく無事に完了してよかったというのが実感です。御同慶の至りでおめでとうございます。参加した方々から、参加してよかった、また来たいとの言葉を聞けたことで団長の役目を無事に果たした訳ですが、これも皆さんが楽しい旅をするためにご協力をして下さったお陰です。ありがとうございました。
 またこの成功の陰には中國國際廣播電台(北京放送)の蘇克彬副台長、張富生亜洲局長をはじめ、日語部のスタッフ、小田急トラベルのスタッフ、そして当団の旅行実行委員、等々多くの人々のご尽力の賜物と感謝致しております。ただ旅行の終わりに、小松秀洋さんと依田夫人が体調を崩され、又帰国してから数人の方が同じように下痢をされたと聞き、一瞬集団食中毒かと思いましたが、余り悪性ではなかったようで御同慶の至りです。

 この訪中演奏旅行は、1985年11月に第一回を催行しました。このきっかけは8年近く中断していた白門グリークラブの活動を再開である第4回演奏会を開催した直後のことです。現団長の依田安弘さんが勤務先の東京12チャンネル(現テレビ東京)のアナウンス部長である宮本隆司氏に、「中国での男声合唱演奏会が可能でしょうか」と何気なく聞いたことです。(編集者注:この細かい経緯は依田さんの寄稿をどうぞ) 宮本先生が中国國際廣播電台日語部(北京放送日語部---当時の日語部は亜洲局と同格であった)の日本語アナウンサーの指導をされていたことから、北京放送が全面的に協力してくれることになり、旅行計画がすべて外事処(渉外部)が担当し、日語部は通訳案内、接待、報道を担当。歓迎宴は台長、副台長2名までもが出席するという大変な歓迎ぶりでありました。

 種々の理由で単独の演奏会は出来ませんでしたが、西城地区にある文部処の講堂で中国ではじめて行われた残疾者(身障者)全国大会唯一のアトラクションとして出演し、満席の聴衆を感激させたことはお聞き及びと思います。このような思いが私共は勿論、西城地区の残疾者協会の方も、コーディネートした北京放送の方々も忘れがたく、3年後の1988年にリピートする事となった訳です。

 それからすぐに天安門事件(編集者注:第二次天安門事件1989年6月3-4日)などがあり、個人的なお付き合いだけで13年間経過してしまった訳です。しかしせっかく宮本先生のお陰で北京放送の方々との親交を継続してきたのですが、当時の幹部の方々が定年で去られ、若手であった方々が素晴らしいご活躍をされてそれぞれが重要な役職に就かれているので、これまで築いてきた民間交流の絆を修復し強化するよいチャンスだ、と両者に提案したところ喜んで採択してくださったのです。特に北京放送は2001年12月3日が中国國際廣播電台開局60周年に当たるので、このときの催しの一つとして取り上げられる事となり、第3回の訪中演奏旅行が実現する事となりました。

 その成果については個々人によって受け止め方が違うでしょうが、私は前述の通りです。しかし今後のことで一つの成果を得ました。それは北京放送のOBで活躍している合唱団があり、ジョイントコンサートが出来るかもしれないという話です。このチャンスを生かし、更なる日中友好の民間交流の絆をせひ強めていただきたいと思います。(写真:北京放送での公開番組で聴衆たちと。左から筆者、蘇克彬北京放送副台長、森田敏昭氏)
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