2004年

11月

日曜練習を開催2004年11月7日掲載)
 第14回演奏会まで3ヶ月足らずになった穏やかな秋晴れの日曜、練習会場は来年の演奏会場でもあるJR王子駅前の北とぴあ。長野から駆けつけた依田安弘団長、週末には会社のある長野から千葉の自宅に戻る米澤博文さん、茨城から朝一番の電車に乗って来た高山宏さんはじめ団員33名のほか、音楽監督の森田敏昭さん、客演指揮の松本宰二先生、日中の練習ならなんとか、と久々に姿を見せた大蔵純君、休部中だがステージマネジャーを務める丸亀英雄君らが参加しました。
(ケルビーニのレクイエム指導中の松本先生:写真提供は丸亀君)

 檄を飛ばす依田団長
 午前中の2時間は松本先生の厳しい発声指導とケルビーニの「レクイエム」。確かに難曲ですが松本先生の本格的指導開始以来、急速に曲想が団員の身に染みこんできたようです。ただし、松本先生はまだまだ不満の様子。この曲を取り上げた本人である森田さんは練習中はピアニストの大庭さんの後ろに立ったまま、楽譜と団員を睨みながらの厳しいチェック。
 午後は藤澤さんの指導でケルビーニの二番と七番。さらに日本歌曲集5曲。高木さんの指導でロシア民謡と黒人霊歌をそれぞれ3曲。特に黒人霊歌では団員が最も苦手とする英語の発音で宮本康幸さんが指導に立ちました。「かなり良くなりましたよ」と成果が現れているようです。
16時35分解散。


▼話題の4人
(左より)
・来年の指揮こそ断念したもののケルビーニだけはどうしても気になる森田さんはこの日も
 午前中に姿を見せて、鋭い目つきで出来上がりをチェックしていきました。
・休部中ながらステマネを引き受けた丸亀君は、ストップウォチで演奏時間の確認に専念。
・数ヶ月前から顎鬚を蓄え始めた小川さんは「団員紳士録の写真も変えて欲しい」と、かなり
 自信の様子。
・手術後の経過が順調な大蔵君も久々に練習に参加。皆を安心させてくれました。
 真剣な眼差しでケルビーニを
 チェックする森田音楽監督
 久々の音の響きに思わず
 目を閉じ感銘する丸亀君
 顎鬚もさまになりつつある
 と自慢げの小川さん
 久々に団員と会話する大蔵君


10月

●第14回演奏会チラシとチケット完成(2004年10月31日掲載)
 演奏会実行委員会が制作を進めてきた宣伝用チラシとチケットが完成しました。
 PDFファイルでご覧になれます。ここをクリック14concert-leaflet.pdf へのリンク
 ご覧になるには Acrobat Reader が必要です。


●1年半ぶりに合宿を開催(2004年10月24日掲載)


 代々木のオリンピックセンターが新装なってから予約が極めて難しくなり、合宿が出来ないでいましたが、第14回実行委員会(江畑忠委員)が主催した合宿が10月23−24日の2日間、1年半ぶりに開かれました。会場は夢の島にあるスポーツ文化館。中年以上の世代にとってはゴミの集積場としてのイメージしかありませんが、今や一帯は広大な公園として緑地化され、今回の会場もそのほぼ真ん中にあります。
 演奏会まで3ヶ月余り、久々の開催とあって、約30名の団員が参加しました。


依田団長から森田常任指揮者の降板を説明

 常任指揮者の森田敏昭さんがこの夏から健康状態が思わしくなく、都内の病院に入院。ほぼ回復したものの本人の申し出もあり、来年の演奏会で演奏する予定のケルビーニ作曲「レクイエム」の指揮を断念することになりました。森田さんにとっては永年にわたって構想を温めてきた壮大な曲だけに、断念するのは無念なことでしたが、幸いなことに代演指揮者として二期会のバリトンとして活躍中の松本宰二先生をこの曲の指揮者として迎えることが出来ました。
 先日森田さんと協議した依田団長から、これまでの経過について練習開始前に説明がありました(写真左)。「指揮者としては登壇しないが、音楽監督として演奏会成功に向けてご支援をいただくこととした」と発表、「しかし、我々団員の責任は非常に重くなった。森田さんが欠けたから演奏の質が低下した、などと聴衆から指摘されないようにさらに練習に力を入れなければならない」と檄が飛びました。


▼松本先生が来場、本格的にレクイエムを指導
 すでに来年2月の第14回演奏会では客演指揮者として「ロシア民謡」を指揮することになっている松本宰二先生(中央大学グリークラブ・ボイストレーナー)が1日目の夜に来場しました。この日は直前までお知り合いの結婚披露宴に出席、お疲れのところを18:00から2時間30分にわたって、レクイエム4曲を指導してくれました。
 さすがにプロの声楽家として事前にこの曲の指導を丹念に研究したこともあり、休みなしに発声、ラテン語の発音も交えて2時間連続の指導
依田団長の前で決意を新たにした団員たちは珍しく弱音も吐かずに健闘、当初は心配の顔だった松本先生も安心の様子でした。


▼ピアニストの大庭直子さんも退院
 団員にとっては娘同様の大庭さんが10月初めに2週間の入院生活を余儀なくされましたが、無事退院し元気な姿を見せてくれました。団からはお見舞いに花篭を送りましたが、「それに付いていたメッセージが嬉しくて、まだ自分の部屋においてあります。ありがとうございました」」との感想でした。

▼突然、大きな地震が発生
 夜の練習開始直前、17:56ころと、練習が始まってしばらくした18:40頃の2回にわたりかなり大きな地震が発生しました。最初の地震のときは管理人は廊下にいましたが、横に大きく揺れが繰り返され「これはかなり大きいな」と直感しました。ロビーのTVではすぐに速報が流れましたが、新潟県の小千谷付近では震度6強を3回にわたり記録したとか。
 被災者の方々にはお見舞い申し上げます。


▼練習後は世代ごとに部屋で懇親会
 宿泊棟は5人一部屋。管理人は3年先輩の中村真一さん(ベース)、同じく高山宏さん(セカンドテナー:茨城県から参加)、1年後輩の辰巳則夫くん(ベース)、3年後輩の桜井正夫くん(トップテナー)と同室となり、和洋折衷の客室で風呂にも入らず約2時間のおしゃべりを楽しみました。
 途中で演奏会実行委員の江畑さん、酒豪横綱の熊木さん、中嶋さんが乱入、音楽、趣味、愛犬、学生時代の大学スポーツ、当時の体育実技、さらには活躍が期待される来年の箱根駅伝などと話題が発展、さらに混乱に輪をかけたのであります。
 中でも体育実技の選択では、江畑さんの野球は驚かないにしても、中嶋さんがなんとフェンシング(防具が汗臭くってねえ・・・とご本人)、そして高山さんが重量挙げだったとのこと。「100キロまで持ち上げられたんだよ」。

 「何でまたそんな競技を選んだんですか」の質問には、
 「野球などの人気競技は申込者が多くてね、結局抽選で外れてしまってやむなくこれにしたわけ」と中嶋、高山の両氏の話でした。


 左の写真は練習後に、閉店直前の売店でビールとつまみを買い求める同室者たち(左から高山、中村、桜井、辰巳の各氏)


●この一ヶ月間のスパム(SPAM)メールを仕分けてみました(2004年10月9日掲載)

 今年(2004年)5月頃からスパムメール(大量発信メール)としか思えない悪質なメールが頻繁に届くようになりました。メールアドレスを自動収集するソフトもあると聞いた頃があるので、以前演奏会の広報で多くの合唱団の掲示板に自分のメールアドレスを書いたせいか、とも思っていましたが、日を追って増える一方。受信のたびに削除する手間が面倒なものです。

 そんなところに今年3月に管理人の利用するインタネット用ADSL通信業者から約37万人余りの個人情報が外部に流出し、運悪くその中には管理人の氏名、住所、電話番号、メールアドレスなどが含まれていたことが分かりました。この事実を通信業者とプロバイダから知らされたのはなんと5ヶ月も後の8月26日。この頃にはスパムの届かない日はなく、ひどい時には一日で10通も届いた日もありました。

 そこで長年親しんだメールアドレスを9月5日に変更したのです。約400名近い友人らに新アドレスを伝えました。ところが旧アドレスに知らずに送信する善意の人もいるかと思い、一ヶ月間は新旧アドレスとも平行して受信できるようにしていた訳です。9月5日から削除せずに仕分けをしていたスパムメールは一ヶ月間の合計で140通に達しました。新アドレスは今のところ友人や親族らにしか知らせていないので当分スパムは来ないはず。そんなわけで、種類別に仕分けておいたスパム件数を公開します。




▼スパム防止が売り文句のスパム
 一番多かったのが「出会い系」の35件。すべて日本語メールでした。僅差で「ウイルス付きのメール」で31件、これは全部英語のメールです。馬鹿馬鹿しいのがスパムを防止するソフト売ります、ってのが売りの広告メール。これも全部英語。バカヤロ、スパム防止がスパムで来てどうする・・・。
 「性器増大薬品」はなんのことか、お分かりですね。管理人には無用の(笑)ものです。「米国厚生省公認」なんて書いてありました。「違法コピーソフトの広告」も結構来ました。Windows XP、高額なことで知られる画像処理ソフトのPhoto Shop、CAD(製図ソフト)などが商品ですが、市価の1/10程度。もちろんオリジナルの正当ソフトではありません。海賊版ですから、インストールすれば犯罪です。

▼これはいったい何?
 仕分け出来ずに「意味不明」としたのが1件ありました。ここをクリックしてください。全文ハングル語。青空とギリシャ神殿らしき建物をバックに左手を上げて立つ笑顔で国籍不明、あごひげの男。右手には盾のようなものを持っています。そこには英語と思しき「SKY HD」なる文字。これ以外には日本語はもちろん、英語すらありません。語学の才能豊かな管理人でもハングル語はお手上げ。いったいこれは何なのでしょう?




9月

●港区のコミュニティ紙「Kissポート」に清水さんが登場
(2004年9月11日掲載)

 港区きっての有名人(自称)である清水軍治さんが同紙9月号に掲載されました。
 数日前の夜にキシキシと管理人のファックスが動き始めました。白黒でしかも黒がベタですから、何の書類だろうといぶかっていたら清水さんから今度は電話が・・・。
 「あ、届いた? オレ、取材されちゃってさ」
 そこで改めて記事を読むと、区内で活躍する変人文化人を定期的に紹介するものでした。
 「あの、それでね・・・」
 「みなまで言うなっての。HPに載せましょう」
 「そう? 悪いね」
 掲載のためにオリジナルを送ってもらいましたが、よく記事を読むとしっかりとお店、ドイツ料理のSchweinの写真も載っかっています。区報のようなものですから、さすがに店名はありませんでしたが。

 なお準区報とは言え著作物ですので、本来はここに無断で掲載できるものではありません。
 清水さん、発行者の港区スポーツふれあい文化健康財団に転載了承を取り付けてくださいまし。
 しかしアコーディオン(ドイツ製130万円とか)を抱えてなかなかいい写真ですな。

<発行所>
港区スポーツふれあい文化健康財団
107-0052 東京都港区赤坂4-18-13
発行部数 15万部


●野中さんから寄稿(2004年9月9日掲載)

 トップテナーの野中忍さんから6月28日に寄稿されたものをご紹介します。掲載が遅れたことをお詫びしつつ。写真も野中さんからのご提供です。



 白門のページに西園寺公望邸で撮った写真がありましたが、公望の別荘「興津坐漁荘」について一寸一言。
 坐魚壮はワイフの実家の町内に有りまして、ほんの数分の所にあります。かつては別荘が沢山ありましてそれは風光明媚な所でした、前は海を隔てて遠くには伊豆天城の連山を、目前には三保の松原、左を見れば霊峰富士山が、後ろには奈良時代に創建された東海道屈指の名刹「清見寺」がありそれは大変素晴らしい所でした。
 公望曰く、「設備は京都の清風荘が良いが、眺めはここが一番良い」と言わしめたくらいのところですが、残念ながら今はその面影もなく、前の海は埋め立てられ大きな倉庫が立ち並び三保の松原も見えません。公望が健在ならばとてもこんな姿には変貌しなかったであろうし、又させなかったでしょう? 公望が愛用した当時の「坐漁荘」は昭和45年、明治村に移転復元されました。現在の坐漁荘は新しく建てられ今年の5月にオープンしたばかりです。

復元された興津坐漁荘正面 その母屋

参考リンク:旧東海道の旅・興津宿

 
8月

●来年1月15日、16日に演奏会直前合宿開催(2004年8月1日掲載)
 第14回演奏会実行委員である江畑さんから管理人宛に本日メールがありました。今日は奥様のお誕生日とか。おめでとうございます! 中田喜直さんと同じ誕生日(8月1日)ですね。

1月15日(土)〜16日(日)の直前合宿を、10月と全く同じ内容で、同じBunBにて押さえてきました。参加の可否等は、11月以降でよろしいかと思いますが、合宿があるということだけでも為るべく早く団員にお知らせ願いたく、メールします。
今日は、家内の還暦誕生日です。近所の焼き鳥やにでも行くとするか。


7月

●今年8月から来年1月までの練習日程(2004年7月20日掲載)
 技術スタッフ(旧技術委員会)から日程と練習曲目が発表されました。ここをクリックしてダウンロードしてください。PDF形式なので前もってAdobe社の Acrobat Reader が必要です。そのダウンロードはここからどうぞ


●練馬白門会総会懇親会に出演
(2004年7月12日掲載)
 珍しくも2日連続の出張演奏。比較的気温も落ち着きましたが、来年の演奏会開催に向けての資金作りという活動でもあり、千葉在住の団員も集まり、参加団員は約30名になりました。
 司会は昭和49年卒業でタレントとして活躍する牧ひろしさん。ウクレレ漫談の牧伸二さんのお弟子さんだそうです。創立30周年記念懇親会に参加した練馬白門会のメンバーは約70名に上りましたが、御園会長の話だと、登録している会員だけでも3000人になるそうです。
 校歌、応援歌、月光とピエロ、サランヘ、など全10曲を演奏し、午後7時に閉会。恒例の惜別の歌はどの参加者も特段の重いがあるらしく、世田谷以上の大合唱となりました。閉会後は喉の渇きを癒しに10名近い団員がまだ明るい中、駅に近い寿司屋に消えていきました。
 管理人の帰宅は途中まで高木繁雄氏と一緒。氏の出身校である県立長野高校の東京同窓会も毎回100名以上の参加者があり、大賑わいだそうです。



●世田谷白門会総会懇親会に出演
 (2004年7月10日掲載)
 前日まで5日続きの真夏日。7月10日は朝からの雨模様で、多少気温も下がりました。昨年に続いての招待演奏。いつものことながら、マージャン好きの誰かが声を掛けたようで、8名の古参団員が新橋に、なんと午前10時に集合。延々6時間にわたり雀卓を囲んだとの事。
 演奏の集合は三軒茶屋のキャロットタワー26階に午後6時30分。昨年は総会が紛糾して30分以上も待たされました。我々の控え室の隣が総会場だったので議事の様子が聞こえていましたが、議長の閉会宣言を遮るような質問が出たようで石井さんが苦心の答弁をしているのがありあり、閉会は6時50分。
 懇親会冒頭に校歌演奏。一度控え室に戻り、ビールとおつまみのご接待をいただきました。隣の会場から聞こえてきたのが、新入会員のあいさつ。私と同じ昭和47年卒の女性も新入会員としてスピーチをしていました。8時5分から6曲演奏。立ったままの皆さん、よく聴いて下さいました。出席者の中には明日お邪魔する練馬白門会の幹事長もお出でになっていて、「楽しみにしていますよ」と声を掛けられました。最後の「惜別の歌」はさすがにどなたもご存知で、約50名の出席者が全員肩を組んで歌ってくれました。この曲が全国に知られるようになってもう50年以上も経ちます。
 管理人は中村真一さんと世田谷線(三軒茶屋→下高井戸)、京王線(下高井戸→分倍河原)、JR南武線(分倍河原→谷保)と、往路とは違う電車で帰宅。


中央大学グリークラブ創立秘話 その2(2004年7月1日掲載)
 「白門グリークラブのゴッド・ハンド」の異名を取る団長、依田安弘さんが土蔵に眠る古文書を整理していたところ、昭和59年10月10日発行の学員時報(中央大学学員会本部事務局)を持ってきました。その中の「私の中大史」に現団員(副指揮者)である藤澤賢二さん(昭和38年卒、当時43歳)が一文を寄せています。(読みやすくするために改行、句点、句読点、一部の送り仮名や漢字は管理人が変更しました)

 
 つい先日の九月十五日に開催された東京都民合唱コンクールに出場した我々白門グリークラブは惜しくも優勝を逸し、三十団体中の二位に入賞しました。この白門グリークラブは在京の中大グリーOB有志の集りで昭和三十五年に創部され、現在も毎週火曜日に練習を読けています。このように今でも太いきずなで繋がっているグリークラブとの出合いは昭和三十四年で、法学部に籍をおいた私はお茶の水の旧校舎大講堂で行なわれた入学式の際の、男声合唱団(現グリークラブの旧称)による中大校歌の演奏に大きな感銘をうけました。
北海道に育った私には大編成の男声合唱を、ナマで聴く機会はそれまでになく、中学・高校と合唱を続けて来た私は大学に於けるクラプ活動に当然の如く男声合唱を選んだのです。
 当時、音研の練習場は、後楽園から坂道を上った富坂にありました。入部決定後第一回目の練習日に、上級生から新入部員がパ−トを分けられて簡単な練習のあと、一堂に会してロシア民謡の「ともしび」を歌った時の身体のふるえるような感激は今も忘れません。上級生と新入生を合わせて百五十名にも達する人数での大合唱。幅広く響くベースの低音、透明なテノール、その中に我が身をおいて先輩部員に囲まれハーモニーを創造する歓び。″これこそ大学の男声合唱団″という思いと、 ″今日から自分も中大生″という実感が交錯しながら大きく高まりました。
 中央大学グリークラブ(当時の正式名称は″中央大学音楽研究会男声合唱団″)の創立は、昭和二十六年にさかのぼります。現在、本学の文学部事務長を務めておられる石井先輩が中心となって創部されました。我々が在学中の指揮者は青木八郎先生、監督は現在も続けておられる石井先輩で、年間の行事の主なものとして春・夏の合宿、日本大・学習院大との合同演奏会であるコールユニオン、合唱コンクール、定期演奏会、地方への演奏旅行、学内の各種行事への参加等、今にして思えば厳しい練習のもとに若さにまかせて盛り沢山なものをこなして来たものだ、という感じがします。
   執筆当時の藤澤さん
 定期演奏会については、こんなことも想い出のひとつです。当時の音研会長は、金子文六先生でしたが、先生の考え方は、学生の演奏会は有料であってはならない、というものでした。しかしステージに立つ我々にとって、入場無料の演奏会は何か物足らない、他の大学では有料で行なっている、何か良い知恵はないか。上級生は色々考えたそうです。私が一年生の時の話しです。そして入場料の中から諸経費を除いた収益は、これを全額東京都の社会福祉施設に寄附するという事として、音研会長、及び大学の了解をいただいたという苦心談を聞かされました。
 在学中の想い出の最も大きなものは、北海道への演奏旅行です。それまでも今宿終了後等に小規模な演奏旅行(二〜三日の行程での)は行なわれていましたが、前年に北陸方面への演奏旅行を成功させた我々は、図に乗って北海道への演奏旅行を企画しました。現在では現役学生諸君の海外での演奏会もそう珍しいものではなくなっているようですが、昭和三十六年頃、学生が徒党を組んで、北海道くんだりまで演奏旅行に出かけるなど、快挙というべきか暴挙というべきか(ちなみに、当時ラーメン、かけそばが三十円、山手線内は十円。大卒初任給をもじって、一万三千八百円〃という歌が流行していました。) しかし走り出したら止まらないのが若さの特権とでもいいましょうか、学内の道人会への働きかけから始まって、各地の白門会等とひんぱんに連絡を取り、一応の目途をつけてついに出発しました。
 桐生市を皮切りに、青森市、函館市、北見市、置戸町、旭川市、札幌市と、一通りの演奏会をこなして解団式を札幌のビアガーアンで行った時は一つの大きな行事をやりとげたよろこびもさることながら、一種の
虚脱感にとらわれた事を覚えてます。
 追申 いろんな事がありました。開催予定他の後援団体とギリギリまで話し合いがまとまらず、幹部数名が先乗りしたこと、列車での移動中に台風に遭って線路が不通となった為、富良野町の公民館で一泊して翌朝バスで途中まで行き炊き出しを受けたこと。演奏会終了後、主催者であった地方新聞社へ出演料をもらいに行き、いろいろなやりとりの後、出演料を約束の半額に値切られたこと。美幌峠の頂上で、観光客やアイヌ衣裳をまとった土産物店の娘さんに囲まれながらソーラン節を歌ったこと等、つきぬ想い出が浮かんで来ます。
 一時期グリークラブも学園に吹き荒れた紛争の嵐の影響で弱体化し、部員も三十名を割り存続をあやぶまれましたが、現在は指揮者菅野浩和先生によりまた盛り返して七十名からの団員となっています。私も現役諸君の演奏会に時に顔を出しますが、中世の宗教曲や北欧の音楽に非常に秀でており、数多い大学合唱団の中でも高い評価を得ています。更に来年、昭和六十年には、大学百周年記念として、念願のヨーロッパ演奏旅行を計画しているようです。男声合唱団創立から三十五年。画期的な壮挙であり、OBの一人として成功を願って止みません。
 冒頭に述べたOBの白門グリークラブも、平均年令はやや高くなりはしたものの気持は相変わらず若く、去る七月十五日に、前進座ホールで行った演奏会ではおそろいのTシャツでステージに上り、観客を沸かせました。とはいっても、Tシャツが横から見るとDシャツに見える団員も数名おりますが、来作の母校百周年には中国へ遠征しようとか、現役とジョイントリサイタルをやろうとか、カンカンガクガクです。
 延々と連なる、先輩と後輩のきずな……。これこそが、私が他に誇り得る最大のものであり、この出合いに私を導いてくれたグリークラブこそは、私の生涯を通しての、心のふるさとなのです。



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